鈴木宗男が激白!「安倍首相VSプーチン大統領、そして北方領土問題の真相」 (2/4ページ)
自由と民主のロシアになってからは、日本政府は4島の帰属の問題を解決して平和条約を締結するという方針に転換しています」 北方領土問題を正しく知るには、“歴史の闇”を理解する必要があるという。時は、1951年のサンフランシスコ講和条約締結時にまで遡る。
「当時の日本政府は条約で国後・択捉の権利を放棄しています。具体的には“千島列島を放棄する”と宣言しているんですが、国後と択捉は千島列島に含まれています。一方、歯舞・色丹は根室の行政区なので権利は日本側にあります。歯舞・色丹の2島引き渡しを目指した日ソ共同宣言(56年)の発効日の翌日、根室の住民らは大喜びし、提灯行列していますからね」
歯舞・色丹の返還は、指呼の間にあったのだ。「ところがその後、時の外務政務次官が、“日本は国後・択捉の権利を放棄していない”と国会答弁したため、混乱が生じたのです」
その背景には、アメリカからの圧力があったことが知られている。いわゆる“ダレスの恫喝”である。「日本の全権代表がモスクワで共同宣言の交渉中、重光葵外相がアメリカのダレス国務長官とロンドンで会談した際、ダレスは、“もし日本が2島返還で合意してソ連と平和条約を結んだら、沖縄を永遠に返還しない”と恫喝してきたんです」
当時は東西冷戦の真っ只であったため、日本の意志のみではどうすることもできなかったのだろう。結果として冷戦期は、ソ連側は「領土問題はない」という立場。日本側はそれに対して売り言葉に買い言葉で「4島一括即時返還」という立場を取り続けたわけだ。しかし、91年に共産主義のソ連が崩壊し、ロシアとなってから状況は一変する。
「そこから日本は、“領土問題の段階的な解決”に方針転換することができたのです。橋本(龍太郎)政権時代の97年11月には、エリツィン大統領とクラスノヤルスク首脳会談が行われ、2000年までに日露両国が平和条約を締結することが確認されました。当時私は国務大臣(北海道・沖縄開発庁長官)で、実現に向けて命懸けで奔走しました。その翌年の川奈首脳会談では、橋本総理が択捉島とウルップ島の間に両国の最終的な国境線を引こうと提案すると、エリツイン大統領がそれに応じようとしたんです。ところが、同席した補佐官が本国に持ち帰り検討すると言いました。