不遇な死を遂げ、更には遺体への粗末な扱いを受けた方に対する改葬の歴史 (2/2ページ)
■現代の改葬とは異なり、当時は合理的な理由で行われていた
「両墓制」では、実際に遺体を埋葬し、それ以降はほぼ放置される墓標のない「埋め墓」と、墓参りの対象である、遺体はないが石の墓標の建つ「詣り墓」を建てた。
「埋め墓」に墓標を建てないのは、大きく分けて2つの理由があった。前近代の日本では、故人の遺体へのこだわりが、現代に比べ希薄だったことと、もう一つ、遺体が白骨化すると地中に空洞ができるので、上に重い墓標を建てると陥没してしまうから、ということである。
この2つ目の理由こそ、吉原遊女の遺体が、改葬を経て石の供養塔の下に埋葬された理由の一つでもある。
また、大人数の遺体のために1つの墓標を建て、それ以降もそこに葬られる遺体が増えていくという点でも、改葬を経ることは合理性があった。白骨化によって容積が小さくなった遺体は、白骨化していない遺体に比べると、移動させやすく場所を取らないからである。
参考文献:大和の終末期古墳、 0葬 あっさり死ぬ、 吉屋信子全集〈12〉私の見た人・ときの声 (1976年)