「ミスター・長嶋茂雄」を育んだ佐倉ものがたり(8)父・利が最期に遺した言葉

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「ミスター・長嶋茂雄」を育んだ佐倉ものがたり(8)父・利が最期に遺した言葉

 長嶋が高校時代に放った唯一のホームランは、1953年8月1日、県営大宮球場で行われた南関東大会の熊谷高戦だった。観客が満員になった甲子園出場切符をかけた試合で、超特大の本塁打を打ってのけるあたりが、長嶋の長嶋たるゆえんである。

 ホームランが生まれたのは6回表。福島郁夫(のちに東映。通算14勝14敗)が投げた真ん中高めのストレートを、長嶋はバットの芯でとらえた。打球はぐんぐん伸び、センター後方のバックスクリーンにぶち当たった。当時は飛ばないボールで、ここまで遠くへ飛ばした高校生は初めてだった。

 不思議なことに、打球はバックスクリーン横の芝生席に座っていた初老の男の足元に転がった。巨人スカウトの若林俊治であった。長嶋は巨人に入団する運命にあったのかもしれない。

 ホームランの感触が手に残ったまま、長嶋は興奮状態で家に帰った。仕事で観に来られなかった父に報告しようと、玄関の戸を勢いよく開けたとき、利が笑顔で出てきた。

「シゲ、きょうのホームランはでかかったな‥‥」

 息子に必要以上緊張させまいと、あえて嘘をつき、お忍びで球場まで観戦しに行ったのである。

 利は農業を営む傍ら、臼井町役場の収入役を務めていた。祖父の彦三郎も、臼井町役場の助役兼財務係だった。

 武彦は生前、わたしが取材に行くと、いつも利の自慢話をした。

「おやじは若い頃、色白のせいで、秋祭りになると、地元青年団主催の歌舞伎で女形を演じたんだ。『利ちゃんがきょう女形をやるよ』と伝わると、近所の人たちがこぞって観に出かけたんだ」

 利は毎日、風呂場で声色の稽古をするほどだった。日曜日には電車を乗り継ぎ、銀座の歌舞伎座に出かけた。六代目・尾上菊五郎(近代歌舞伎の伝説的名優)の熱烈なファンであった。

 その芝居好きの息子が、後年プロ野球に入り、「千両役者」になる。これほど痛快な物語もないだろう。

 利が亡くなったのは、1954年6月2日。茂雄は立教大学1年生で、砂押邦信監督から“月下の千本ノック”を見舞われているとき、「チチキトク スグカエレ ハハ」という電報を受け取ったのである。茂雄が息せき切って実家に駆けつけると、利は声を振り絞った。

「野球をやるなら、東京六大学で一番の選手になれ。プロ野球でも一番の選手になれ。富士山のような日本一の選手になるんだぞ」

 茂雄は頷き、泣きながら父の手足をさすったが、徐々に冷たくなっていった。

 武彦によると、利の病気は、高血圧が高じた心臓肥大症。近所の医者に診てもらうと、血を抜く処置しかしなかった。

 親友の小林が振り返る。

「枕元に駆けつけた茂雄ちゃんを見てびっくりしました。連日、砂押監督から千本ノックを受け、ガリガリに痩せていました。思わず『大将、だいじょうぶか』と聞いたくらいです。佐倉では出棺後、餅を搗(つ)いて食べる風習があるんですが、茂雄ちゃんは『新人戦があるから』と、臼井駅に向かいました。長女の春枝さんがホームで大泣きしていたのを覚えています」

 長源寺の葬儀に参列した人たちは、ちよのことを心配したが、終始気丈だった。

「どんなことがあっても、茂雄は絶対に大学を卒業させます‥‥」

 ちよの行商は、葬儀の翌日から巨人入団の日まで、毎日つづくことになるのである。

松下茂典(ノンフィクションライター)

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