民俗学者の折口信夫が記した「死者の書」に勇気づけられた劇作家の加藤道夫 (4/7ページ)
また、医学者で精神科医の大原健士郎(1930〜2010)は、加藤の「僕には職業的劇作家としての方法論はない。たゞ理想の演劇が脳裡にあるだけである。僕の理想の演劇は常に僕をはげますと同時に、僕を挫折させる。僕の作品は、すべて、その意味では幻滅の記録に過ぎない。そして僕は幻滅の度に、改めて勇気を振ひ起すやうに、シェイクスピアやクローデルやジロゥドゥや、その他の偉大な作品達を讀み直す」(1952年)という文章に着目し、加藤の健康面の問題、ニューギニアにおける死の体験(心的外傷)に加え、「彼の繊細で良心的な精神は、理想や夢を求めてあがいたが、それとはあまりにも懸隔した現実の前に反応性うつ病の状態を生じ、生きてゆくことに挫折したものと思われる」(1972年)と指摘している。
しかし、死を選ぶ直前の加藤は、「来年」の1954(昭和29)年が人生3度目の年男になることを思いながら、「生來神経の弱い僕などは來る日も來る日も唯書かねばならぬと云ふ強迫観念に取り憑かれてゐる。健康の状態が書くことを拒み始めると一種のノイローゼに襲はれて、完全な無為の状態が來る…(略)…せいぜい健康になつて、のんびり落伍しないやうに努力したい」と「抱負」を書いてさえいる。また12月10日には旅先の伊豆・嵯峨沢温泉から、妻の治子に「来年は必ずいいことがあるように努力します」と、手紙を書き送ってさえいた。加藤と親しかった劇作家の矢代静一(1927〜1998)は、「こんな思いやりのある手紙を無理して書くことはなかった。だから、死に急ぎしてしまったのだ」と、正直な感情を吐露している。
■時期的に重なる加藤道夫以外で自殺を選んだ当時の著名人
多くの日本兵が飢餓と伝染病のために命を落としたニューギニアで、加藤はせっかく生き延びることができたにもかかわらず、「決行」した。12月22日の夜、「枕もとに食パンと歯磨き粉があった」、そして「床に坐って足を投げ出したような恰好で、ほんのすこし腰が浮いているような状態」で死んでいた加藤の真意は、誰にもわからない。