人が動く! 人を動かす! 「田中角栄」侠(おとこ)の処世 第62回 (2/2ページ)
一方で、独房は真夏でもクーラーなし、汗っかきで鳴った先生いわく『あまり暑いので、アソコをウチワであおいでおった』と言っていましたナ」
一方、政局的には、出所した田中の“逆襲”が直ちに始まった。自民党内では田中派が公然と「三木退陣」を要求、再び“三木おろし”の気運が盛り上がってきた。これに「ポスト三木」を窺う福田赳夫、大平正芳の両派、あるいは中間派もこれに乗り、「人心を一新して挙党体制を確立する」ことを名目に「挙党体制確立協議会」が立ち上げられ、数の力をバックに三木に退陣を迫ったものであった。
対して、したたかさで鳴る三木は衆院の解散をチラつかせながら応戦、一歩も引かなかった。しかし、結局は解散権は行使できず、戦後唯一の任期満了による総選挙を迎えることになったものであった。結果、この年の暮れに行われた総選挙は世論の集中砲火を浴びて自民党は大苦戦、結党以来初めて過半数を割る事態となったのだった。
ここに至ってさすがの三木も敗北を認めざるを得ず、責任を取る形で首相辞任を余儀なくされた。田中としては、“宿敵”三木のクビを取った形であった。後継首相には、「三木おろし」工作を推進した“論功行賞”的意味合い、田中の「盟友」大平ではあまりに露骨ということもあり、田中も政敵福田の就任をのまざるを得なかったということだった。
また、田中にとってまさに窮地であった先の総選挙では「10万票を割るかも知れない」との見方もあったが、フタを開けると〈旧新潟3区〉で16万8千票を獲得してトップ当選、その底力を見せつけたのだった。
一方、田中に対する東京地裁の公判は翌年(昭和52年)1月27日の第1回公判から毎週1回開かれ、回数にして実に191回も重ねられた。その後、6年余を経た58年10月12日、田中は懲役4年・追徴金5億円の有罪判決を受けることになった(判決5日後に保釈金2億円で再度保釈)。首相経験者が実刑有罪という一審判決の激震を受けて国会はいよいよ紛糾、改めて衆院を解散して「国民に信を問う」ことを余儀なくされた。いわゆる「ロッキード選挙」への突入であった。
田中はその一審判決に対し、直ちに控訴手続きを取るとともに、悔しさをにじませ次のような「田中所感」を発表したものであった。
「地裁判決は極めて遺憾である。(中略)私は根拠のない話や無責任な論評によって真実の主張を阻もうとする風潮を憂える。わが国の民主主義を護り、再び政治の暗黒を招かないためにも、一歩も引くことなく前進を続けるつもりである」
田中は有罪判決にもなお強気、総選挙では驚異の票を獲得して、以後しばし、「闇将軍」「キングメーカー」の名のもとに政局を牛耳続けることになるのである。
(以下、次号)
小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材46年余のベテラン政治評論家。24年間に及ぶ田中角栄研究の第一人者。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書、多数。