人が動く! 人を動かす! 「田中角栄」侠(おとこ)の処世 第64回 (2/2ページ)

週刊実話

田中は周囲の心配をよそに投票日の4、5日前にはすでに「22万票取れる」と豪語、実際の獲得数とはわずか761票差だったことで、まさに「選挙の神様」を実証した形だった。また、これまで田中から受けた数々の“恩恵”に対し、選挙民の“報恩”ということでもあったのである。

 ちなみに、この選挙には当時、参院議員だった作家の野坂昭如が「打倒金権政治」を掲げて田中の選挙区(旧・新潟3区)から出馬、2万8000票で次点落選した。その敵である野坂に、あえて「塩」を送った田中のこんなエピソードが残っている。
 「田中は野坂が新潟の冬の寒さを知らないだろうという配慮から、手袋などの防寒具を贈っていた。田中の選挙の余裕を見る一方で、“人間力”もまた見たということです。野坂は選挙戦で『打倒金権政治』はブチ上げてはいたが、田中個人の名前を執拗に挙げることはなかった」(当時の選挙戦を取材した地元記者)

 この総選挙の自民党敗北から1週間が経った日、敗北の責任を迫られた苦境の中曽根首相は「いわゆる田中氏の政治的影響を一切排除する」とする“田中排除声明文”を発表した。
 ところがこの声明文、何と筆を取ったのが田中の腹心の二階堂進幹事長であったことが明らかになった。そしてこのことは、間もなくの田中派瓦解へ向けての幕を開けることになったのだった。

 “田中排除声明文”から約10カ月後の昭和59年10月、もともと田中の影響力を受ける中曽根の政治手法をよしとしなかった鈴木善幸前首相や福田赳夫元首相らが突然、公明、民社両党を巻き込み、二階堂副総裁を首相として担ぎ上げる「連合政権構想」を打ち出した。二階堂としては自らが首相となるこうした連合政権となれば、自民党内、あるいは世論の反発から、ひいては田中と田中派を守れるとの意識があったようだ。
 ところが、この「二階堂擁立劇」は実を結ばなかった。田中派の小沢一郎(現・自由党代表)ら若手を中心に、先の“声明文”の張本人であることなどから、二階堂への不信感が根強かったことが大きかった。しかし、最終的には、田中と二階堂がサシで話し合い、二階堂が擁立劇に乗らないことで一応の決着を見たということだった。この話し合いの後、田中は言った。
 「オレと二階堂は夫婦みたいなもの。たまにケンカもするが、何でも言い合えば後はスッキリしたものだ」

 田中は二階堂を制することには成功したが、また新たな“難題”が持ち上がっていた。もう1人の田中派幹部、竹下登が動き始めていたのであった。
(以下、次号)

小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材46年余のベテラン政治評論家。24年間に及ぶ田中角栄研究の第一人者。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書、多数。

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