天下の猛妻 -秘録・総理夫人伝- 吉田茂・雪子夫人(下) (2/2ページ)
二つは、GHQ(連合国軍総司令部)による新憲法の“押し付け”制定を呑んだことだった。当初、吉田は軍備を持たず交戦権の放棄には難色を示した。そんな規定ではとても国家とは言えず、これからの日本は国際政治の中で対処していけないとの考えだったが、最終的には持ち前の外交官的センスの中で決断をしたということだった。
すなわち、交戦権の条文に解釈の余地を見い出すことで、やがての防衛力の漸増を描いていた。軍隊は膨大な“カネ食い虫”である。それならGHQによる新憲法を逆手に取り、戦後日本にとっての急務である経済復興にこそ持てる資金を投入、日本の軍備はアメリカに任せてしまえという発想、決断だった。「安保タダ乗り論」ということである。
結果的に、軍備に食われるカネを経済力の蓄積に回す“防衛問題迂回戦略”が功を奏し、その後の池田勇人内閣での高度経済成長路線で日本再建に結びつくことになったものである。
昭和38年10月、政界を引退した吉田は、終生、入籍はしなかったものの、小りんに“妻の座”を与え、神奈川県大磯の大邸宅に引きこもった。ときに、その隠然とした影響力を頼って「大磯詣で」という言葉があったように、政局の折々で大物政治家、政治記者が引きも切らず、あるいは外国からの要人もしばしば訪れたものだ。自らトボケた「海千山千荘」と名付けたこの吉田邸は、しばし戦後政治の重要な舞台となったものであった。
そうした中で、小りんは昔とった杵柄で巧みな接待をこなし、吉田の身の回りの世話にいそしんだ。また、吉田といえば好きな古今亭志ん生の落語、アメリカのテレビドラマ『アンタッチャブル』などを楽しみ、永田町の“世俗”とは一線を画してもいた。たまたま、こうした吉田の楽しみの時間帯に来客があると、「あいにく不在でございます」と断るのも、小りんの役目だった。前妻・雪子とは、一味も二味も違った機転の利く“後妻”だったのである。
その吉田は昭和42年10月20日、心筋梗塞を発症して満89歳で天寿をまっとうした。死の前日朝、快晴の富士山を眺め「きれいだね、富士山は」とポツリ口にした。振り返れば、吉田のこの言葉は、自らに天下を取らせた雪子と小りん2人の“静かなる猛妻”への感謝の面影が浮かんだということかもしれない。
その小りんが終生、入籍しなかったのは、前妻・雪子に対するせめてもの贖罪だったと思われるのである。
=敬称略=
小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材48年余のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『決定版 田中角栄名語録』(セブン&アイ出版)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。