天下の猛妻 -秘録・総理夫人伝- 石橋湛山・うめ夫人 (2/2ページ)

週刊実話


 石橋は首相退陣への決意の書簡を、時の首相臨時代理の岸信介、自民党幹事長の三木武夫宛に、こう記したものだった。
 「私は新内閣の首相として最も重要な予算審議に1日も出席できないことが明らかになりました以上、首相としての進退を決すべきだと考えました。私の政治的良心に従います。(中略)私の自民党総裁として、また首相としての念願と決意は、自民党にありましては党内融和と派閥解消であり、国会におきましては国会運営の正常化でありました。私の長期欠席が、この2大目的をかえって阻害いたしますことに相成りましては、私のよく耐え得るところではありません」

 この潔い首相退陣の決断は、その後、政権亡者に陥りがちな政治家への“頂門の一針”として、今日まで永田町、国民に感銘を与えることとなった。このわずか63日の首相在任は、内閣史上、戦後初の首相であった東久邇宮内閣の49日間に次ぐ超短命内閣でもあったのだった。
 その後、妻のうめは昭和46年8月、83歳で死去。その約1年半後の48年4月、石橋もうめの後を追うように88歳で没した。退陣後、うめの必死の看病、療養生活で健康を回復した石橋は、その後、二度の訪中をするなど「日中友好」に心血を注いだものであった。

 円満これ以上なき湛山・うめ夫妻の間には、一つだけ心痛この上ないことがあった。昭和19年2月、海軍主計中尉だった次男・和彦がマーシャル群島のケゼリン島で戦死したことであった。戦死公報は1年遅れで届いたが、その追弔会の席上、石橋は「此の戦、如何に終わるも汝が死をば、父が代わりて国の為に生かさん」と詠んだ。この思いが、石橋を最終的に政界へ向かわせたとの見方もあるのである。この席上、一方のうめは、昭和17年10月に和彦が休暇で一度だけ帰宅した折、自らの手料理で、一家で夕餉を囲んだ思いにひたるように、涙を見せることなくひたすら瞑目し続けていたそうである。

 「人を見る明(めい)」で、一番的確なメルクマール(目印、指標)は、「出処進退」に見られると言われている。とくに、その人の「退」の有様、過程を見れば、人物の大きさ、器量が、まず見えてくるということである。
 越後・長岡藩の名家老、河井継之助による出処進退の原則についての名言がある。「進ム時ハ人マカセ。退ク時ハ自ラ決セヨ」。
 「反骨のジャーナリスト宰相」としての石橋の“引き際”の潔さ、人生の燃焼は、「夫唱婦随」に徹した妻・うめの思いに依ったところが多かったとも言える。
=敬称略=
(次号は岸信介・良子夫人)

小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材48年余のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『決定版 田中角栄名語録』(セブン&アイ出版)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。
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