天下の猛妻 -秘録・総理夫人伝- 岸信介・良子夫人(上) (2/2ページ)

週刊実話

その中でケロリと元気のよかったのが岸、もう1人がのちに日本船舶振興会会長としてラツ腕を振るうことになる笹川良一だった。
 笹川はプカプカ、ドンドンの楽隊に送られて“巣鴨入り”した男であり、むしろ獄中生活を楽しんでいるといった風情であったと言われている。その笹川をつかまえて、ある日、岸はこうこぼしたのだった。
 「わしは、毎晩イチモツが隆起して困っている。1週間に一度は夢精する。その洗濯がつらくてね。なんとかならんものだろうか」
 笹川も、女性の嫌いなほうではない。戦時中は「東洋のマタハリ」と言われた美貌の川島芳子との付き合いもあった男である。しかし、巣鴨では、もとより“聖人君子”で通していた。笹川は自分より3歳年上の岸のそんな言葉に、さすがに「参った」としてカブトを脱いだというエピソードがある。

 生前の岸と親しかった政治評論家の今井久夫は、岸の「巣鴨プリズン」出所時の話を次のように記している。
 「(出所とともに)田布施に飛んで帰った岸は、その晩、良子を寝かせなかったという噂が流れた。田布施の古い家は、かなり震動したに違いない。その晩の夫婦和合の回数が、とんでもない数字になって友人間の話のタネになった」(『月刊ペン』昭和55年10月号)
 ここでは“心技体”亭主操縦術にたけた良子の「良妻」ぶりが浮き上がるが、一方、その後の岸の政治家としての豪胆ぶりもまた窺えるのである。

 岸内閣で誰もが思い出すのは、旧日米安保条約を改定した新安保条約成立の際の「60年安保騒動」である。
 岸首相は、吉田茂元首相がやむなく選択した「日本の安全保障をすべて米国の意にゆだねる」ことからの脱却を目指して政権をスタートさせている。このままでは米国の一州にすぎず、独立国とは言えない、との思いからの新安保条約である。日米対等のものとして、以後の国際社会の一員たるを目指した。ために、岸にとっては新安保条約は譲れない一線だった。
 首相官邸、国会周辺には岸内閣打倒をスローガンにデモ隊の波が連日押し寄せ、世情は騒然としていた。新安保条約が自然成立した昭和35年(1960年)6月19日、岸首相と実弟の佐藤栄作大蔵大臣の2人は命の覚悟を決め、デモ隊に包囲された官邸の中で一夜を徹したのである。
 岸をしての“代名詞”に、「昭和の妖怪」という言葉が残っている。「妖怪」の妻は、押して知るべしのタイヘンな一生を送ったのである。=敬称略=
(この項つづく)

小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材48年余のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『決定版 田中角栄名語録』(セブン&アイ出版)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。

「天下の猛妻 -秘録・総理夫人伝- 岸信介・良子夫人(上)」のページです。デイリーニュースオンラインは、社会などの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る

人気キーワード一覧