天下の猛妻 -秘録・総理夫人伝- 池田勇人・満枝夫人(下) (2/2ページ)

週刊実話

これには、首相秘書官だった伊藤昌哉ののちの証言がある。
 「とにかく、夫人は池田首相と接触する人たちに悪い気持ちだけは与えてはいけないと、お菓子一つ、お茶一つでも、客だけでなく外で待っている車の運転手にまでも必ず出していた。また、秘書が風邪で2日、3日休もうものなら必ず自身で見舞いに行っていたし、それこそ全身で神経を使っていた。ハラもすわっていたが、こうした夫人の気配りあってこその池田政権だったと私は見ている」

 その池田は、振り返ればなんとも「強運」な男であった。難病を克服し、大蔵省にも復職でき、次官までのぼり詰め、「ワンマン」吉田茂元首相にかわいがられて代議士1年生にして大蔵大臣に抜擢され、やがて天下を取った。「中小企業の二つ、三つ潰れてもかまわん」「貧乏人は麦を食え」などの“放言”もあったが、首相の座に座るや日本の戦後復興に全力を注ぎ、高度経済成長をレールに乗せてみせたのであった。
 しかし、好事魔多し。昭和39年(1964年)9月、国立がんセンターで「前がん症状」の病名をもらい入院した。耳なれぬ診断、病名はがんセンターの配慮で、すでにこのとき喉頭がんの末期状態であった。池田は入院後1カ月余のその年10月25日、首相退陣声明を出した。この日を選んだのは、東京五輪が閉幕した翌日、聖火が消えた余韻に合わせて池田も政権の座を降りるのだ、との側近の大平正芳の“演出”であった。
 池田が亡くなったのは翌40年8月13日。亡くなって2時間後、東京地方ではそれまで20日間、一滴も降らなかった雨がしのつくように降り出した。池田の死があまりにショックだったのか、涙一つこばさなかった満枝のそれを代弁した“涙雨”と言えたのだった。

 生来が陽気で、酒も浴びるほど飲んで言いたいことを言い、「強運」を一人占めしたような池田。弔問に参列した各界の名士を前に、満枝は「池田はやりたいことをやらせて頂きました。心おきなくあの世に参ったものと思っています」と頭を下げた。
 その満枝は池田の死後36年経った平成13年1月、眠るように他界した。「池田政権をつくったのは満枝夫人である」とは、いまにして政界の定説になっている。まごうことなき「天下の猛妻」と言えたのである。
 ちなみに、池田がかつて口にした「貧乏人は麦を食え」の“放言”以後、池田家は一貫して麦飯で通していたことはあまり知られていない。
=敬称略=

小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材48年余のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『決定版 田中角栄名語録』(セブン&アイ出版)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。

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