「遺骨の意図的な置き去り」に見る現代日本人の死生観の変化 (2/2ページ)
その高額な金額をすぐに工面するのは、特に貯蓄が多くない世帯には難しいだろう。
墓を建てず、遺骨を自宅で保管している世帯もかなりある。しかしそれもままならなくなって、「供養したい、しかし自分ではどうすることもできない」と悩んだ結果、遺骨の置き去りに繋がるケースがあると言われている。
■現代日本人と「死」の在り方
もちろん金銭面での問題も原因であろうが、筆者はこの現状に現代人の死生観の変化が表れているのではないかと考えている。
つまり、「家」という血縁の繋がり、ご近所さんなどの地縁の繋がり、それらがずいぶんと薄れてしまったということだ。
これは葬儀の簡素化にも密接に関係していると思われるが、死後の故人との交流(お墓参りであったり、お盆であったり、死後に行われる行為)に以前ほど重きを置かず、一族の繋がりの中に自分を位置づけるのではなく自分ひとり、個人の単位で物事を処理するようになった気がするのである。
遺族が遺骨を意図的に忘れていくなど罰当たりな気もするが、遺失物として預かっている警察には幾らか同情的な意見もある。何かしらの手段で捨てるよりもこうして遺失物としても届けられれば、少なくとも無縁仏として経をあげてもらうことはできるからだ。
確かに生きるのにも足りないようなお金を、死者のために使う必要があるのか、という考え方もできるし、その答えは人によって様々であろう。それでも「お金がなくて大切な人の遺骨を置き去りにするしかない」という現状を、「仕方がない」という言葉で正当化してしまって良いかというとそこには疑問が残る。このような遺骨との折り合いのつけ方は、あまりにも虚しいと思ってしまうのは、筆者の身勝手であろうか。
火葬の後の遺骨をできるだけ丁寧に供養したいと思うのは、誰もが持っている願いであろう。金銭面で何か問題があれば、火葬場やお寺などで相談に応じてもらうこともできるそうだ。
いずれ訪れる親族の死、自分の死、その前に 何ができるのか、どうすればよいのか、身近な人と話し合いの場を持ちたいものである。