男前すぎる!西郷隆盛と対峙した偉大な幕臣、彼の名は「山岡鉄舟」[前編]

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男前すぎる!西郷隆盛と対峙した偉大な幕臣、彼の名は「山岡鉄舟」[前編]

いよいよ、平成30年(2018年)1月から大河ドラマ「西郷どん」が始まりますが、西郷の人生に大きな影響を与えた人物には、味方だけではなく敵方すなわち幕府軍にも少なからずいました。

その1人が勝海舟・高橋泥舟と並んで“幕末の三舟”と称えられた幕臣で、剣豪の山岡鉄舟(てっしゅう)です。今回は、前編と後編に分けて山岡鉄舟と西郷の物語について紹介します。

好きなことにはドンドン打ち込む!偉大な幕臣の意外な少年期

山岡鉄舟

山岡鉄舟は天保7年(1836年)6月10日、江戸本所に生まれました。父は蔵奉行を務めた小野朝右衛門高福と言う武士でしたが、母は剣豪・卜伝の末裔に当たる塚原磯で、そうした血のなせる業か、鉄舟は9歳から直心影流の剣術を嗜んでいたと言います。

鉄舟の剣術に対する熱の入れようは凄まじく、父の小野高福が招いた剣道家・井上清虎から北辰一刀流を学ぶなど、流派を超えていました。また、弘法大師流・入木道(じゅぼくどう)の書家である岩佐一亭(いわさいってい)から書の指導を受け、15歳の若さで彼の跡を継いで52世になるなど、鉄舟は文化の才にも長けた少年だったのです。

後には17歳から始めた禅をも極めていく鉄舟ですが、興味があるもの、愛好するものにはトコトンまで突き詰めていく彼の求道精神は、この頃から形成されていたのかも知れませんね。

結婚、栄転、謹慎…波瀾万丈に満ちた青年期

嘉永5年(1852年)に父が亡くなると鉄舟は江戸に帰り、清虎の援助で講武所(幕府の武芸訓練所)に入り、剣術や槍を学びました。また、槍の先生であった山岡静山が亡くなった後、彼の妹である英子(ふさこ)と結婚し、婿養子になります。一般的な呼称である山岡鉄舟は、この時から始まったものです。

一方、清川八郎や中條金之助などと浪士組に入り、将軍・徳川家茂のお供をして京都へ赴く栄転を受けます。が、清川が幕府に警戒されたために浪士組は江戸に召還され、彼に清川が暗殺された時に鉄舟も謹慎させられるなど、その身辺には動乱の足音が刻一刻と迫っていました。

敵は西郷…将軍家の危機に鉄舟が駆ける!

慶応4年(1868年)に幕府分の精鋭隊歩兵頭格に任じられた鉄舟のもとに、重大な密命が届きます。それは、新政府軍の西郷隆盛に使者として立つことでした。無名の武士であり、しかも清川八郎と組んで騒動まで起こした前科者の鉄舟が選ばれた理由としては、当初使者になるはずだった徳川の護衛官・高橋泥舟が持ち場を離れられないことから、鉄舟を推薦したからだと言われています。

幕府の司令官勝海舟にも会って認められた鉄舟でしたが、刀が無いほどに困窮していたと言います(剣士なのに刀が無いのも奇妙な話ですが)。そのため、借り物の大小を帯びて、

「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る!」

と叫びつつ、官軍の警備をものともせずに西郷の元へと向かっていきました。鉄舟は如何にして西郷を説き伏せたか…それは、後編へつづく。

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