天下の猛妻 -秘録・総理夫人伝- 中曽根康弘・蔦子夫人(中) (2/2ページ)
結婚当初の中曽根は、家庭にあっては時に「貴様ッ」などと海軍調で蔦子を一喝、しばし新妻をビックリさせたものだが、相当ホレていたのか、蔦子の次のような述懐がある。
「私の写真を、いつも内ポケットに入れていたそうですよ。最初の妊娠をしたときも私が酸っぱいものを欲しがるので、あるときなど、主人は会議に出た夏ミカンを食べたふりをしてそっとポケットに入れ、持って来てくれたこともあったのです」
ところが、新婚わずか1年半ほどで“事態”は急変する。当時、中曽根は警視庁監察官に就任したばかりだったが、突然、内務省に辞表を提出、さっさと一人で郷里の群馬へ帰ってしまったのだった。東京に置いていかれた蔦子のもとに“消息”が入ったのは、中曽根が高崎に帰ってから1週間も経った頃で、来たハガキにいわく「次の総選挙に出るから高崎に来い」であった。
蔦子が乳飲み子(のちの長男・中曽根弘文参院議員)をかかえ高崎へ帰ると、どうだろう、すでに中曽根は内務省の退職金で買った自転車をペンキで白く塗り、「日本をアカの手から守ろう」などと訴えて回ったり、青年団に働きかけて『青雲塾』なる会を結成、「日本の再建を目指そう。青年よ立て!」などと、口角泡を飛ばしたりしていたのだった。当時から「反共」の一本ヤリ。“舌”の使い方は海軍時代からさらに磨きがかかっていた。まさに、まごうことなく蔦子いわくの「結婚詐欺」だったということである。
その頃のことを、NHKの元アナウンサーでもあった二女・美恵子は、次のように蔦子から聞いている。
「母にとってはまさに“寝耳に水”のことでしたが、それまでの父は、自分の考えを他人の意見は聞かずに独断で進めてしまうことがたびたびだったので、文句を言う間もなかったようです。その最初の選挙のとき、兄(弘文)が1歳、姉がお腹にいて投票日は臨月だったのです。そんな具合でしたから、母にとっては凄絶な選挙戦を余儀なくされたといいます。
大きなお腹を抱え、一方で兄のオムツを取り替えながら、その間をぬって支援者へのあいさつ回り。しかし、こうした“政治家の妻”は母にとってはいかにも不本意だったでしょうが、一方で、父の仕事をなんとかまっとうさせてやりたいということで、そうした中での選挙の手伝いもできたのだと思っています」
昭和22年4月のこの総選挙で、中曽根は蔦子の献身も手伝ってトップ当選。その後は異名「風見鶏」全開の“政界遊弋史”を刻んでいくことになるのである。
=敬称略=(この項つづく)
小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材48年余のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『決定版 田中角栄名語録』(セブン&アイ出版)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。