「とんでもない女!」源氏物語の作者・紫式部の痛烈な清少納言バッシングの真意とは?

Japaaan

「とんでもない女!」源氏物語の作者・紫式部の痛烈な清少納言バッシングの真意とは?

「清少納言こそ、したり顔にいみじう…」紫式部の痛烈批判

『源氏物語』の作者・紫式部による日記には、他の女房たちを批判している箇所があります。その中でも特に有名なのが、『枕草子』の作者としてやはり彼女と同じくらい著名な清少納言への批判です。

画像出典:紫式部 (土佐光起筆 石山寺蔵)/Wikipedia

「清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人。さばかりさかしだち、真名書き散らして侍るほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり」

これは
「清少納言は、物知り顔をしてとんでもなかったとかいう人。利口ぶって漢字を書き散らしているけれど、その知識もよく見れば足りないところばかりじゃない?」
という内容です。

かなりの痛烈批判ですが、紫式部は単に同じくらい文才に優れた女房であった清少納言に対するライバル意識ゆえに、このような文章を書いたというわけではなかったのです。

清少納言の主人・皇后定子の悲劇を知っていた紫式部

紫式部は同日記の中で、さらに続けてこう書いています。

「かく、人に異ならむと思ひぬる人は(中略)いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ、をかしきことも見過ぐさぬほどに、おのづから、さるまじくあだなるさまになるに侍るべし。そのあだになりぬる人の果て、いかでかよく侍らむ」

簡単に言えば
「あのような人と違うことばかりを好む人は、ぞっとするようなひどい時にも「素敵♪」と感動することを見逃さないから、そのうちに自然と現実からかけ離れたイタい人になるのよ」
とまで清少納言を批判した紫式部。

紫式部が中宮彰子の女房として宮仕えを始めた頃には、清少納言は既に宮中を退出していました。従って紫式部は、清少納言と面識があったわけではないと言われています。

清少納言が仕えた皇后定子と言えば、一条天皇の最初の后にして最愛の正妃でした。しかし定子の父・藤原道隆が亡くなった後、兄の伊周が花山法王に矢を射かける事件を起こすなどして実家が没落し、更に藤原道長の娘・彰子が無理矢理に中宮の位に据えられ「二后並立」という前代未聞の事態になるなど、不運に見舞われます。

そして紫式部が宮中に上がる前に、渦中の定子自身も出産の床で亡くなりました。

これらを噂に聞き及んでいたからこそ、紫式部は「自分の主人があんなとんでもなくつらい目にあっていた最中に、楽しいことだけを書き綴っていた清少納言ってとんでもない!」と感じたのでしょう。

現代なら、とんでもない不幸に見舞われた芸能人が、そんな時期にさえ「インスタ映え」を意識したかのようなSNS投稿ばかりしていることを批判するような感覚でしょうか。

紫式部の思いは後に『源氏物語』に投影された

さて、紫式部の感じた皇后定子の悲劇に対する思いは、後に彼女の作品『源氏物語』にも影響を与えました。定子は死の直前に、3首の歌を残していました。そのうちの1首は…

知る人も なき別れ路に 今はとて 心細くも 急ぎたつかな
(知る人もいないあの世へ、心細いけれども急いでもう旅立たねばなりません)

実は紫式部の書いた『源氏物語』の最初の帖『桐壺』にも、桐壺の更衣が死の直前に天皇に贈った歌が登場します。

限りとて 別るる道の 悲しさに いかまほしきは 命なりけり
(もうお別れして、あの世へ行かなくてはなりません。でもその旅立ちが悲しくて…。私は死出の道を行くのではなく、命を生きたいのです)

「別れ路」と「別るる道」はおおよそ同じ意味ですが、どちらも本来は旅の別れに使われ、辞世の歌に使われる例は極めて稀です。

繊細な感性故に清少納言の主人・定子の悲劇を心に留め、その悲劇の渦中にいながら楽しいことばかりを『枕草子』に書き綴った清少納言に反感を持った、紫式部。しかし清少納言が敢えてこのように『枕草子』を著した背景には、どうやら別の思惑があったようです。

参考:『枕草子のたくらみ~「春はあけぼの」に秘められた思い』山本淳子著

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

「「とんでもない女!」源氏物語の作者・紫式部の痛烈な清少納言バッシングの真意とは?」のページです。デイリーニュースオンラインは、紫式部源氏物語清少納言日本語・日本文学古典カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る