問われる墓の存在理由 墓は再定義が必要? 改めて考える墓 (3/3ページ)

心に残る家族葬

雨でも風でもない他の何でも誰でもない「あの人」に会うために。

■パワーレススポットとしての墓

南は、何もないところで死者を想い出しても思考は拡散するばかりであり、人が死を思うには器が必要であると主張する。そして、恐山とは力を与えてもらえるパワースポットではなく、「想い」を放出する場としての「パワーレススポット」であると述べている。

墓もまたそういうものではないかと思う。死者と語り合う器。死と向き合う場所。「千の風」には形ある「死者」が存在しないのである。

一方、墓には死者がいる。墓を参り墓の前で現在の自分たちの生活を報告する。誰しも「暑いだろう飲んでね」などと墓石に話しかけながら水をかけたりしたことがあるだろう。そこには対話がある。在りし日と変わらないふれあいがある。恐山ほどの激情はないかもしれないが、墓もまた「想い」を放出するパワーレススポットといえるのではないだろうか。

■心に生き続ける「墓」

筆者は「千の風」を否定しているのではない。冒頭で「墓」を否定するこの詩が、軽視されつつある「墓」の意味を考える材料として適していると考えた故である。この詩は多くの残された人たち心を癒したことだろう。私的には1995年発売の南風椎訳「1000の風」は訳も写真も非常に美しい一冊で、是非一読を薦めたい。

しかしこの詩が「墓」という文化を、死者を冷たい石の下に閉じ込める、息の詰まるような「伝統」「慣習」であると見なし、それに対するアンチテーゼとして捉えられているとしたら、それは残念なことである。

もちろんどのような世界観・死生観を選ぶかは個人の自由であるが、筆者は少なくとも日本人の心には、千の風が吹く前に恐山=墓があるのだと考える。
それは、形ある死者、在りし日の「あの人
との対話の場である。時にはお墓にいる昔と変わらない「あの人」とひとときを過ごすのは決して悪い時間ではない。


■参考文献

南直哉「恐山 死者のいる場所」新潮新書 2012年
南風椎 訳「あとに残された人へ 1000の風」三五館 1995年

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