鎌倉幕府を倒すも政治には無関心?室町時代を築いたレジェンド・足利尊氏の生涯に迫る!その2 (2/2ページ)

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しかし、朝廷の政治には無関心だった?

北条高時の腹切りやぐら

1333年の5月22日に鎌倉幕府が倒れると、高氏は後醍醐天皇から武勲が一番であったと賞賛され、従四位下を始めとした数々の官位、各地に30の所領を賜ります。同年8月5日には天皇の名前である『尊治(たかはる)』から一字を賜って尊氏と名乗りました。

後醍醐天皇が行った建武の新政(建武中興)には各地から武将が招かれて仕官しましたが、尊氏は要職に就かなかったので“尊氏なし”と噂にもなりました。一説には後醍醐天皇など朝廷サイドから遠ざけられたとも、尊氏が自分から朝廷の政治に関心を示さなかったとも言われています。

しかし、そこまでして政権から距離を置いたにも関わらず、家柄も能力も申し分なく、気前の良い尊氏の周囲には多くの武士が集まります。それは、他でもない建武の新政から来るものでした。

建武の新政で武士や民は困窮…追われた者達が、尊氏を頼って押し寄せる!

後醍醐天皇

後醍醐天皇が始めた建武の新政は、朝廷を中心とした政治を復興させると同時に、大陸からも進んだ思想・哲学を導入することで臣民の生活を守る善政を目指したものでした。しかし、うまくいかないばかりか、数々の問題が起こりました。

特に、早急過ぎた改革や人事、特に朝廷から領土を賜ったのが尊氏や正成など一部の武将を除けば、後醍醐天皇の側に仕える公卿などが独占してしまうと言う問題が、決定打となります。土地は主君から与えられた生活基盤であり、命を賭けてでも守る美徳(一所懸命)を貫く対象でもある武士達は、徐々に不満を抱きました。

そして、彼らは武家の思いを叶えてくれる希望の星として武家の棟梁に相応しい条件を兼ね備えている尊氏を慕い、武士や民衆のための時代を望んだのでした。そして、それは尊氏に災難を降り掛からせることにもなるのです。

画像:Wikipedia『後醍醐天皇』『篠村八幡宮』『東勝寺合戦』より。
トップ画像:足利尊氏とされてきた騎馬武者像

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