品川区荏原で行われた「5・24城南空襲を語り継ぐ会」に参加してきた (1/7ページ)

心に残る家族葬

品川区荏原で行われた「5・24城南空襲を語り継ぐ会」に参加してきた

「東京の空襲」といえば、戦争末期の1945(昭和20)年3月10日深夜0時を過ぎたところで起こった、主に現在の江東区・墨田区・台東区を中心とした「下町大空襲」が有名だ。しかし、東京の空襲はそれだけではなかった。主に夜間に行われた、同年4月13〜14日の東京西北部、4月15〜16日の東京南部から神奈川県川崎市、5月24日の東京西南部の空襲。正午過ぎと夜の10時半前後になされた、5月25〜26日の、都心から西部にかけてのものもある。これら4月13〜14日、4月15〜16日、5月24日は「城南大空襲」、更に5月25〜26日も含めて、「山手大空襲」とも呼ばれる空襲があったのだ。

■城南大空襲の被害規模や範囲は?

「城南大空襲」においては、旧・荏原(えばら)区(現・品川区荏原、小山(こやま)、豊町(ゆたかちょう)、戸越、平塚)の被害が甚大だった。区全体の70%が被災した。総務省の調査によると、旧・品川区(現・品川区南品川、北品川、西品川、東品川、広町(ひろまち)、東大井、西大井、大井、南大井、二葉、大崎、東五反田、西五反田)では重傷者573人、全焼家屋9540戸、罹災者34459人だったのに対し、旧・荏原区では重傷者1712人、全焼家屋15000戸、罹災者60000人だった。旧・品川区近辺で比較的被害が少なかったのは、品川湾岸(現・大田区平和島)に捕虜収容所があったことが配慮され、爆撃がなされなかったためだと言われている。

■荏原とはどんな場所だったのか。

荏原地区は江戸期までは農村部だった。だが地区内に中原街道、鎌倉街道が通っているため、中世以降、品川港から荷揚げされた京大坂(現・京都、大阪)の文物を鎌倉に輸送した。逆に、土地で収穫された農作物を、江戸市中へと輸送したルートだったことから、一般的に「平和」「静か」、それと同時に「閉鎖的」「ムラ社会」などといったイメージが持たれがちな「農村部」の割に、人の流出入や往来が激しい「場所」だった。

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