関東最弱?とんでもない!鎌倉まで攻め込んで来た里見一族~大永鎌倉合戦~ (2/3ページ)
それにしても、後に「関東の雄」として知られる北条軍を二度も撃退したとは驚きです。今後「信長の野望」でも、里見のステータス上方修正をお願いしたいものです。
玉縄の首塚・戸部川の合戦
玉縄首塚。
ここに甘糟氏ら郷土の英雄たちが祀られている。
さて、そんな激戦地の一つに戸部川(現:柏尾川)が挙げられます。
『里見軍記』には詳細な記述がありませんが、そのほとり(鎌倉市岡本)には玉縄首塚が鎮座しており、この辺りで里見・北条の両軍が激突したと言われています。
現地には首塚と伝わる五輪塔を囲むように石碑や卒塔婆、六地蔵さまが立ち並び、見る者に「ここで何かがあった」事を感じさせます。
石碑の説明によれば、大永六年11月12日、鎌倉に攻め込んで来た里見義弘(※義豊の誤り)に対して、玉縄城主・北条氏時(早雲の孫)は大船(現:鎌倉市大船)の甘糟(あまがす)氏、渡内(現:藤沢市渡内)の福原氏と共に迎撃しました。
戸部川のほとりで数回にわたる戦闘の末に里見軍を撃退、北条軍は甘糟氏以下35名の戦死者を出し、福原氏も負傷した一方、里見軍の死者は数知れず……と伝わります。
しかし、里見軍が撤退した理由は鶴岡八幡宮の火事であり、決して弱かった訳ではないのは、これまでの戦いぶりから明らかです。
平和への願い・怨親平等の精神
玉縄首塚の石碑。
上部に右から「怨親平等」と読める。