天才テリー伊藤対談「水野雄仁」(1)蔦監督は今の世に通用しない方です (2/2ページ)

アサ芸プラス

僕より1つ上の畠山準さんと僕とが在籍していた時に2年連続で優勝。その時に「やまびこ打線」と呼ばれるようになって。

テリー やっぱり蔦監督は名将だなァ。それが池田高校を選んだ理由だったんですか?

水野 いや、それが違うんですよ。僕は小学生の時から野球を始めたんですけれど、畠山先輩に中学まで1回も勝ったことなかったものですから、「高校でこの人の敵になったらダメだ」と同じ学校を目指した先が池田高校だったんです。

テリー 僕、池田に行ったことありますけど、あそこって何にもないところですよね。

水野 そうです。盆地ですし、山と山の間に家があるっていうぐらいの田舎ですからね。ずーっと吉野川の上流へと遡っていって、だんだん山が迫ってくるのを見て、さみしい気持ちになりましてね。15歳で初めて親元を離れての寮生活でしたから、不安が強かったです。

テリー 名門野球部の練習は厳しかったですか?

水野 ウエイトトレーニングとバッティング練習がメインでしたから、いわゆる「練習中は水も飲めなくて‥‥」みたいな厳しさまではなかったと思います。もちろん、蔦監督は大正時代生まれですから、厳しい方ではありましたけど。

テリー どんな人だったんですか?

水野 今の世の中では通用しない方ですね(苦笑)。

テリー ハハハ、コンプライアンスゼロ、みたいな。

水野 まず普通に話なんかできないんですよ。「はい」か「いいえ」しか言っちゃいけなくて。口答えなんかしたら、すぐ鉄拳が飛んできますし。

テリー でも、あの頃の運動部なんて、そんなものでしたもんね。

水野 でも池田高校は部員が少なかったせいか、先輩と後輩の上下関係はなかったんですよ。だから理不尽なしごきとかもなくて、監督もこちらがちゃんとしていれば怒らない方でした。なので、僕なんかは楽しく過ごせたんですけどね。

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