平安時代の悲劇のヒロイン、源頼朝の長女「大姫」その悲恋と貞操の生涯(下)
前回の記事はこちらから
平安時代の悲劇のヒロイン、源頼朝の長女「大姫」その悲恋と貞操の生涯(上) 前回のあらすじ
大姫(菊池容斎画『前賢故実』より)
頼朝公の長女・大姫は、政略によって木曽義仲の嫡男・義高と婚約し、幸せいっぱいの日々を過ごしていました。しかし、その一年後に頼朝公が木曽義仲を討つと「父親の仇討ちを企むかも知れない」と義高の粛清を企みます。
父の企みを知った大姫は、侍女たちと協力して義高を鎌倉から脱出させますが、その努力もむなしく義高は殺されてしまいます。7歳で最愛の許婚を失った大姫は、悲しみのあまり病床に伏せってしまいました。
以来、寝たり起きたりを繰り返す病床生活の中で、大姫は一人の女性と出会います。
似た者同士・静御前(しずかごぜん)との出会い
静御前(上村松園、明治36年)
義高の死から二年が過ぎた文治二1186年5月、大姫は病気平癒の祈願(御邪氣の御氣色の御對治)で、17日から27日まで「おこもり(参籠)」をしました。その満願成就となった5月27日、鎌倉にやって来ていた静御前(しずかごぜん)と出会います。
静御前は当時、謀叛人として追われていた源義経公の愛妾で、逃げた義経公の行方などを尋問するために召喚されており、白拍子(舞手)としても名高い彼女は、大姫を慰労するため芸を披露したと伝わります。大姫はとても喜んだと伝わりますが、愛する者を頼朝公に奪われた同士、意気投合したのかも知れません。
その後も大姫と静御前の交流は続き、同年9月16日に取り調べがすんだ静御前が京都へ帰る際に、政子と一緒に見送り、餞別(重宝)を与えたそうです。
4ヶ月程度の短い期間ではありましたが、傷心の大姫にとって静御前との出会いは、似通う境遇の友を得た思いであったろうと偲ばれます。
大姫の病気は、頼朝公への「神罰」?
大姫の病に免じて減刑された源範頼(横浜市金沢区 太寧寺蔵)
その後も観音様にお参りしたり、気晴らしの田楽奉納なども行われたりしましたが、大姫の病状はあまりよくならず、一進一退を繰り返していました。
ところで『吾妻鏡』の記録を追っていくと、大姫の病状が頼朝公の動きと連動しているパターンが見られます。
例えば建久四1193年8月、頼朝公が異母弟・源範頼を謀叛の疑いで処罰しようとした時のこと。頼朝公は、範頼の些細な一言を元に粛清を考えていると、大姫の容態が急速に悪化。慌てた頼朝公が範頼の刑罰を軽く(と言っても、伊豆への流刑に)したところ、一週間ほどで回復したそうです。
こうした事が度々あったため「大姫の病気がいつまで(義高の殺害から9年)経っても治らないのは、頼朝公があまりに御家人を罰することに対する神罰ではなかろうか」と言う噂もあったようです。
頼朝公もさすがに気にしていたのか、大姫が回復すると、激務の間を縫って観音様へお礼参りに行っていますが、「武士の世」を創るためとは言え、頼朝公も野望と家族愛との狭間で葛藤していたのかも知れません。
一条高能との縁談、そして懲りない頼朝公しかし、頼朝公としては愛娘であると同時に政治戦略の重要な「手駒」でもある大姫を、いつまでもそっとしておく訳にも行きません。
建久五1194年、大姫は17歳に成長しており、当時なら結婚していて(嫁に出されていて)当然の妙齢です。そこで頼朝公の考えたのは、公家との政略結婚によって、朝廷の政界に足がかりをつくることでした。
ちょうど京都には妹・坊門姫の嫁いだ一条家がおり、その嫡男・一条高能が鎌倉に下向。頼朝公の甥に当たるこの高能と結婚させれば、大姫の心も癒されようし、自分の政略も有利に進む(だろう)。
そんな能天気なことを考えていたのかどうか、大姫の体調が回復した8月18日、政子づてに高能との縁談を持ちかけてみたのでした。
政子にしても、いまだ義高を想い続ける大姫の気持ちは知りながら、もう10年も経つし、そろそろ新しい恋に踏み出しても……と思ったかどうか、ともあれ大姫に話をすると、
「可沈身於深淵之由被申云々(大意:深淵に身投げすると申せられ……)」
要は「絶・対に嫌!そんな事したら身投げしてやるから!」とばかりの拒絶反応を示し、結局破談となってしまいました。
さすがに頼朝公も謝ったようですが、性懲りもなく約2週間後、三崎(現:神奈川県三浦市)に建てた別荘の新築祝いに家族旅行へ出かけた時、大姫と一緒に高能も同行させています。
もしかしたら「実際会ってみれば、素敵な男性かもよ?ちょっと会ってみるだけでもさ。ね?」とか思っていたのかも知れませんが、大姫の感情はもちろん、高能の気まずさが察せられます。
その後・大姫の死と周囲の反応
後鳥羽天皇(伝:藤原信実筆、水無瀬神宮蔵)
その後も頼朝公は大姫の入内(じゅだい。この場合は後鳥羽天皇との縁談)を働きかけるなど手を尽くしましたが、結局すべて失敗。
かくして建久八1197年7月14日、義高への想いを貫き通して、大姫は20歳の若さで亡くなりました。
幼くして最愛のパートナーを奪われ、心に土足で踏み入られるような仕打ち(※頼朝公らにすれば、せめてもの誠意だったかも知れませんが)に耐え続けた、まさに「悲劇のヒロイン」でしたが、『吾妻鏡』をひもとくにつれ、必ずしもみんなが同情的でなかった様子も垣間見えます。
例えば、こんな記述。
「将軍家の姫君、夜より御不例。これ恒(つね)の事たりといへども……」
※建久五1194年7月29日条、御不例とは病気のこと。
この頃、大姫の病気はもう「恒(常)=いつもの事」と認識されており、同年11月10日条「姫君また御不例」などの記述と同様、周囲の「いつまで昔の事を引きずってんだよ……」的なうんざり感が伝わります。
しかし、その一方で、
「……志水殿(義高)事あるの後、御悲歎の故に日を追ひて御憔悴。斷金の志に堪へず、ほとほと爲石の思ひに沈みたまふか。かつは貞女の操行、衆人美談するところなり」
※建久五1194年7月29日条
など、10年経っても許婚を忘れず想い続ける姿に、感動する者も少なからずいた事が察せられます。
終わりに
大姫を供養する岩船地蔵堂。今も多くの観光客が参拝する。
大姫は許婚である木曽義高と同じ常楽寺(鎌倉市大船)の裏山に葬られ、今も心ある方が献花・焼香されています。
また、ところ変わって亀ヶ谷辻(鎌倉市扇ガ谷)では、大姫の死と悲恋を悼んだ北条・三浦・梶原らの御家人が野辺送りを執り行ったと『北条九代記』に伝わり、やがて彼女の菩提を弔う岩船地蔵堂が建立されて今日に至ります。
頼朝公の政略に翻弄されつつも、けなげに純愛を守り通した大姫の人生は、困難に屈しない愛情の尊さを伝え続けることでしょう。
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan
