【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第21話
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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第20話 ■文化八年、二月(3)国直の住む日本橋新和泉町(しんいずみちょう)は人形町通りの東にある。
この辺りは元吉原の区画内で、どことなく艶めいた空気が残る。今は堺町、葺屋町の役者が多く住み、ちょうど国芳と同い年くらいの見習いが芳町の茶屋で春を売って稼ぐ。
腹を空かせきった芳三郎は、軒先の婀娜な提灯の連なりにいくらか如何わしい雰囲気を感じつつも、その前に照降町(てりふりちょう)で嗅いだ町の名物翁せんべいの香ばしい匂いが鼻の芯から抜けず、それどころではなかった。
芝居の切られ与三で知られる玄冶店(げんやだな)の北側の木戸門をくぐると、芳三郎の実家とほとんど似たような新和泉町の裏長屋の風景が広がっていてどこか懐かしく、少し寂しい気持ちになった。
「ここだ」
棟割長屋の手前から三つ目が国直の住処であった。
国直は腰高障子をがたぴし言わせて開いた。
猫の額ほどの土間に踏み込むと大盥、水甕、流し台、上には天窓も付いている。框(かまち)を上がれば四畳半で、狭いながらもきちんと整頓してあった。夜具も畳んで隅に寄せてあり、落書きめいた秋の野花などが描かれた一隻の小屏風で目隠しされていた。
国直は行燈の傍で手際よく火を起こし炭団(たどん)につけ、良い頃合で長火鉢に移した。
芳三郎が火鉢に当たっていると、魚の干物と冷や飯が出てきた。
「これでも食え」
国直の言葉で、芳三郎は野良猫のようにかじりついた。
久しぶりの旨い飯と火鉢の暖かさで芳三郎の身体が芯からほかほかと温まったところで、
「さて、続きを話そう。国貞兄さんの事だ」。
猫のように丸くなろうとしていた芳三郎の背筋が、国直の一言でぴりっと伸びた。
「おめえには酷な話だが、あの人アは天才だよ。迸る才気、努力の量に裏付けられた腕、時流に乗る運の強さ。父っつぁんを超すッつう評判を得た弟子は俺の知る限り二人目だ。ま、見ての通りあの人の腕にゃア父っつぁんもベタ惚れさアな。そんな人を超えてえと思うなら、とにかく頑張って描いて描いて、手がもげるくらい描き続けるしかねえなあ」
「・・・・・・。」
「頑張りすぎてぶっ倒れる頃に、ようやく父っつぁんは絵の相手をしてくれるかもしれねえ。努力してかならず父っつぁんが相手にしてくれる保証はねえが、これだけは言える。努力しねえ奴を父っつぁんが目にかけた事アねえ。努力しねえ奴は、勝負する前にそもそも土俵にあがれねえ」
国直は自分の言葉に頷き、更に続けた。
「正直、こんな辛え事アねえ。真っ暗な道を正しいかも分からず走り続けなきゃならねえんだ。努力の分だけ報われる保証はねえ。努力を重ねても、入るもんが懐に入って来なけりゃ意味がねえ。そんな不安定な毎日に耐えきれなくなる野郎も中にゃアいる。天下の歌川豊国の門下でも、妬み嫉みはあるもんでね。俺ア三馬と組んで初めて売れた時に、目エやられかけた」
国直は、左目の横に薄っすら走る引き攣れた傷痕を指した。火箸でも押し付けられたような痕である。孫三郎の背筋にヒヤリと冷たいものが走った。
「誰が、そんな酷え事・・・・・・」
「知らねえ」
国直がかぶりを振った。
「暴いたところで、兄弟子の誰かを可哀相な末路に追い込む事になるだけだ。そんなのぞっとしねえ。だからこそ、この腕はそういう卑怯な者共から俺の大事な弟分たちを守るために鍛えたのよ」
太い腕っぷしをパンと叩いて国直は微笑した。
「もう一度聞くよ。てめえは本気で頑張る覚悟、あるか?」
国直の瞳の奥の鋭い光が、芳三郎の目を射抜いた。
芳三郎は大きく頷いた。
「辛えぞ?」
「平気でえ」
「そうか。そんならおめえは今日から辛い修行に入る。絵師の道行は沼のように深くて先が見えねえ。おめえは色々な事を犠牲にしなきゃならねえよ。俺たちア家族も色恋も遊びも何もかも一番にゃアできねえ。だが、その代わりにもし本気で頑張るおめえに手を出すような輩がいれば、俺がこの腕で守ってやる。だから」、
国直は目に沁みるような笑顔をした。
「芳は安心して、絵を描きな」。
垂れた目尻が優しく、頼もしかった。
「さあ、今日はもうしめえだ。寝よう」
国直は魚油くさい行燈をふっと吹き消した。
江戸の夜は暗く、長い。
灯を点けようとすると油代が馬鹿にならないので、夜はさっさと寝るに限る。
「・・・・・・鯛兄イ」
ひと月ぶりに夜着に包まり、その柔らかさに感動してすっかり寝付けなくなった芳三郎は、訊いた。
「父っつぁんの腕を超えると言われたなア、国貞兄さんで二人目だと言ったかえ」
「ああ、言ったな」
「そんなら、一人目ア誰なんだ」
「それア、国政の兄さんだ」
(ああ、あの張り子のお面の。・・・・・・)
「よくできた兄さんだったよ。世間様から豊国を超えると言われても、驕らず常に謙虚に誰よりも遅くまで残って描いて、絵師のあるべき姿てえのを示してくれた。まだガキだった俺にもいつも目尻を下げてにこにこしててな。教えるのも上手かった。俺だけでなく、工房の仲間ア全員国政兄さんの事が大好きだった」
「へえ」
歌川国政「松本米三郎の不破初左衛門の娘」ボストン美術館
歌川国政「市川鰕蔵の碓井荒太郎定光にて暫」ボストン美術館
「あの国貞兄さんですら子ども扱いされてな。でも国貞兄さんは、嫌がるどころかよく懐いていた。憧れていたんじゃねえかな」
「そうなのか」
「それがいつ頃だったか、国政兄さんは急に絵を描かなくなった。あの中庭の見える部屋にこもって、張り子の面を日がな一日作るようになった」
「へえ、どうしちまったんだろう」
「分からねえ。俺が聞いたらにこにこして心変わりだと言っていたがな。面がいっぱいになると、それを担いで子ども相手に売り歩いていた。優しい兄さんだから、近所の子どもにも好かれていたよ。だが、知らぬ間に患っていたらしい。ここ一、二年の間にだんだん寝付くようになって、去年の暮れに病で死んじまった」
「それア」、
芳三郎は思わず涙を浮かべた。
「寂しいな」。
「ああ」
それからは毎日が通夜のようだった、と国直はぽつりと言った。
「でも」、
国直は明るい声で打ち消した。
「代わりにおめえみてえな威勢の良い元気なのが来てくれた。国貞兄さんも、本当は救われたような気持のはずだ。他の皆も、勿論俺だって嬉しいさ」
「本当(ほん)に?鯛兄イ、おいら、あの工房に居てもいいのか」
「それアてめえ、もちろんだ。もちろんだともよ・・・・・・」
国直は手を伸ばし、芳三郎の頭を優しく掻き撫ぜた。
歌川国直二十一歳、芳三郎十六歳。
歌川豊国の門下に入ってようやくひと月経ったこの日、芳三郎はのちに歌川国芳となる第一歩を踏み出した。
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