15歳にして「悪(にく)らしいほど強い武士!」となった鎌倉悪源太こと源義平の武勇伝(上)

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15歳にして「悪(にく)らしいほど強い武士!」となった鎌倉悪源太こと源義平の武勇伝(上)

もとの悪源太にて候はん

菊池容斎「前賢故実」より、源義平。豪胆な寝姿。

「いらねぇよ、肩書きなんざ。俺ぁ実力で勝ち取った『悪源太(あくげんた)』の二つ名で十分でい!(※意訳)」

「たゞ義平は東国にて兵(つはもの)どもによび付られて候(さふら)へば、もとの悪源太にて候(さふら)はん」 『平治物語』より。

虚名の官位なぞどこ吹く風……そう啖呵を切ったのは、いま名乗った通り「悪源太」こと源義平(みなもと の よしひら)源義朝(よしとも)の長男で、頼朝公の異母兄に当たります。

それにしても、悪源太とはずいぶん物騒な名前ですが、これは敵にとって「悪(にく・憎)らしいほど強い」ことを意味しており、この二つ名を勝ち取ったのは久寿二1155年、15歳の秋でした。

叔父貴の一味へ殴り込み!獅子奮迅の大蔵合戦

作者不詳『平治物語絵巻』より、源義朝。鎌倉時代

当時、父・義朝は鎌倉を中心に相模国(現:神奈川県)一帯で勢力をのばしていましたが、自身は朝廷への出仕で京都にいることが多く、その留守は義平があずかっていました。

同じころ、義朝の弟で義平の叔父に当たる帯刀先生(たてわきせんじょう)こと源義賢(よしかた)が、北関東に勢力を築くため武蔵国(現:東京都&埼玉県)に進出。

地元の豪族・秩父(ちちぶ)氏と誼を結んで力を蓄え、虎視眈々と南下すなわち相模国への侵攻をもくろんでいました。

……と聞いて、中には「え?何で甥っ子のいる兄の領地を狙うの?」と思う方もいるかも知れません。

実はこの義賢、義朝の父で義平の祖父に当たる源為義(ためよし)が差し向けた、いわば刺客。

義朝と為義は親子だけど仲が悪く、京都で繰り広げていた勢力争いが関東にまで波及してきたのでした。

「鎌倉を守っているのは、まだ元服(成人)して間もない小僧っ子の義平。やっちまうなら今がチャンスだぜ!」

……と思ったかどうだか、そんな動きはとっくにお見通しの義平は、京都にいる父と連携しながら、武蔵国司をはじめ、武蔵国内に割拠する豪族たちに根回しを始めます。

叔父の義賢はともかく、秩父氏は武蔵国で強い影響力を持っているため、真っ向から敵に回したら何かと厄介です。

そこで、既に義賢に懐柔されてしまった者は仕方がないとしても、まだ息のかかっていない者たちに中立を保つよう、つまり「今度の喧嘩、手出し無用でよろしく」と頼んだのです。

かくして根回しもすんで準備万端、義平は少数精鋭で武蔵国・大蔵(おおくら。現:埼玉県比企郡嵐山町)にある義賢の館へ奇襲をかけます。

月岡芳年「新形三十六怪撰」より、大暴れする源義平

「野郎ども!叔父貴たぁ言え親父の敵じゃ!遠慮は要らねぇ、やっちまえ!」

一気呵成に殴り込み、数倍いたともいわれる敵の軍勢を蹴散らし、見事に義賢や秩父重隆(ちちぶ の しげたか)らの首級を上げました。

以来、義平の武勇は東国に知れ渡り「鎌倉悪源太」と恐れられたそうです。

これが後世に伝わる「大蔵合戦」、翌年に勃発する保元の乱(保元元1156年)の前哨戦とも言われ、坂東における義朝らの勢力が盤石になると同時に、為義との関係は修復不能になり、やがて悲劇的な結末を迎えるのでした。

もみ消し切れぬ争いの火種、立ち込める暗雲

ところで、当時いくら世が乱れていたと言っても、朝廷の許可=天皇陛下の勅(ちょく。命令)なく勝手に戦争すること(私軍)は禁止されていました。

今回の「大蔵合戦」は義平の「やられる前にやっちまえ」という動機がきっかけであり、当然そんなものが正当な理由として認められるはずもなく、本来であれば義平は処罰を受けなければなりません。

しかし、ここで京都にいた父・義朝による武蔵国司への根回しが効いたのでした。

国司(こくし/くにのつかさ)とはその国の支配者ですが、多くの場合は代理を派遣し、本人は京都にいました。

武蔵国の場合も同様で、京都にいた武蔵国司の藤原信頼(ふじわら の のぶより)に頼んで、今回の件をもみ消してもらったのでした。

そんな訳で、とりあえず一件落着……とはなりました。しかし、この藤原信頼とのつき合いは、やがて身を滅ぼすきっかけとなるのですが、その話はまた次回に。

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