【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第31話

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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第31話

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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第30話

■文政八年 凩の冬

国芳の棲む裏長屋の立て付けの悪い腰高障子が、ばきっと嫌な音を立てて開いた。

「畜生、今日は風が強えな。凩(こがらし)が渦を巻いてやがらア」

腕を擦り擦り、土間に踏み込んで来たのは大きな襟巻きをざっくり巻いた渓斎英泉である。吉原遊廓での大勝負以来、英泉と国芳はこうして度々交流を持つようになった。

「おい、《ふらふら》よ」

英泉は、得意な分野を決めずにふらふら好きなように描いている国芳の事を《ふらふら》などと呼ぶ。

「へい!?」

国芳は集中して何か描いていたらしく、四畳半のど真ん中で床に這いつくばったまま顔だけ上げた。その顔を見るなり英泉はぷっと吹いた。

「どうされやした、師匠」

英泉は自分の鼻を指して、

「鼻の頭に、墨。・・・・・・」

あ、失礼、と国芳は手の甲でぐしっと鼻を拭い、こっちが気恥ずかしくなるような爽やかな照れ笑いをした。

「いやね、人に会わせようと思って。どうせ暇だろう」

「暇っちゃア暇ですけど、人ですかえ?嫌だなあ」

人見知りの国芳は眉根を寄せた。

「安心しやがれ、人っつうより化け物だ」

「もっと嫌だよ」

恐々とする国芳を、英泉は急かした。

「ホラ、早く出るぜ」

「そこまでわっちに会わせてえ奴たア、いってえ誰なんです」

「もう一人の、《ふらふら》さ」

ケケケッといつもの奇妙な笑いを英泉はこぼした。

「《ふらふら》?」

「ああ。あーたみてえに、どれが得意ってのを決めねえでふらふらしている絵描きを、あーしゃアもう一人知ってるのさ」

「その人に、今から?」

「ああ。会わせてやる。だから酢の蒟蒻の言わずに付いといで」

英泉は足元に落ちていた国芳の絵を何枚か抱えこみながら言った。

国芳は褞袍一枚に三尺帯の出で立ちで、英泉に付いて冬空の下に出た。

冷えきった空気を吸うと鼻がつうんとして、いよいよ冬になりやがったナと国芳は思った。

この季節らしい澄み渡るほどの晴天である。

一歩足を踏み出した途端、下からわあっと吹き上げる旋風で周りの音が全て掻き消され、一種の無音状態が生まれた。その中で、舞い上がった無数の金色の枯葉が陽光に照り輝きながら、空からきらきら降ってきた。

(金色の、雪だ。・・・・・・)

国芳は、思った。

その瞬間、この世は風と国芳と英泉と、ただ三人だけになったようにも感じられた。

(おみつにも、この景色を分けてやりてエな)。・・・・・・

いつかみつを身請けして、そうした暁(あかつき)にはこの美しい凩の冬を二人揃って歩くだろう。

そういう日の事を想像すると、胸の奥が火吹き竹で吹かれたように温かくなった。

「冷えるなア」

隣で英泉が懐に手を入れたのに対して、国芳は口元を緩めた。

「わっちゃアこの褞袍(どてら)が温ッたかくて、ちいと汗ばみますよ」

「あーた、先達てもそれじゃアなかったかい」

国芳の格子柄の褞袍を指して、英泉は嫌味ったらしく言った。

「秋と冬と春はこれ一枚でさア」

「残るのア夏だけじゃねえか。別のを一枚買ってやろう。そうだな、あーたにゃア気味の悪い地獄絵図の褞袍なんか良さそうだ」

ケケケッとけたたましく笑ったのは国芳の方だった。

「そいつア面白え。是非ともお願えしてえところです」・・・・・・

・・・・・・

舌の回る江戸っ子同士きりのない応酬を重ね、本所緑町まで来ると先導する英泉はぴたりと足を止めた。

「ここだよ」

「ここですか」

散々そういう所に棲み続けてきた国芳が言うのも何だが、今にもぺしゃんこに潰れそうな荒屋(あばらや)である。

英泉が戸をガタピシ言わせながらなんとか開き、

「おそようございます、善が来ましたよオ!」

奥に向かって本名の善次郎を名乗ると、

「うるッせえ!!聞こえてらア!!」

倍大きな怒鳴り声が返ってきた。

英泉は動じる事もなく、フンフン鼻歌交じりに土間に踏み込み、下駄を揃えた。国芳がどぎまぎしながら英泉に続いて上がると、六畳ほどの居間と奥にもう一部屋あるようだった。

(うわ・・・・・・)

国芳が思わず一歩後退りするほど、居間の床には描き損じやら煙草の灰やら墨の擦りかけやら、あらぬものが散らばっている。そこを踏み越えて奥の間を覗くと資料の山があり、その傍らに半紙を六枚も張り合わせた見事な花魁図の下絵がそのまま床に投げ出されていた。そのまた奥に丸く盛り上がった夜着があって、怒声の主はその中に籠っているようであった。

英泉は気にせず飄々と話し掛ける。

「鉄さん、今日はあーたにどうしても会いてえってえのが居てね・・・・・・」

会いてえどころか、こんなかび臭え所からとっとと帰りてえやいと思いつつ、国芳は夜着の中の人物に恐る恐る近づいた。

「あ?」

夜着がずるりと剥けて、中から顔が覗いた。

出てきたのは、頭髪は白くそそけ立ち、眉間のあたりにひどく険のある皺深い老人であった。

老人は、国芳を一目見るなり、

「春画の依頼なら、他を当たれ」

英泉は噴き出して、いやいやと手を横に振った。

「こいつを脱がせて春画を描けってんじゃねえんですよ。こいつア、絵描きだ」

一瞬、間が空き、

「こいつが?」

「そうさ。こいつアこんな可愛い面アしてるが、中身はとんだ伝法ですよ。めっぽう面白え絵を描くのさ。こねえだ、あーしと勝負するつって水滸伝の豪傑を百八枚も描いたなア、こいつです」

そうか、と老人は煙草盆を引き寄せて頷いた。彼の耳にも、八朔の吉原の大勝負は及んでいるらしい。今しかないとばかりに、英泉が慌てて持ち込んだ国芳の絵を老人に見せた。

「ふうん」

老人はその絵を手に取り、パラパラめくりつつ表情も変えずに鼻から紫煙を吐き出した。

「おめえ、名前は」

「国芳。歌川国芳」

国芳は名乗り、親父の傍にジリと膝を寄せた。老人はガンと乱暴に灰を落とし、眉をひそめて、

「歌川。・・・・・・ハハア、もしやテメエ、熊んとこのかえ」

「豊国をご存知ですか。わっちの師匠の」

「ご存知も何も、こちとらア奇人変人呼ばわりされたんでね、忘れようにも腹が立って忘れらりゃしねえ。アアその『わっち』という言い方も、熊に似てやがる。嫌だねえ」

「熊さんがあんたにそんな事を?爺さん、一体何者だい」

「何者と言われると、困っちまわア。しいて言やア、曲者って所かねエ」

ケケケッという奇妙な笑い声が、英泉と良く似ている。

「めんどくせえな、この爺さん」

国芳が英泉にこっそり囁くと、

「だろう。この人ア、一筋縄じゃアいかねえ。なんせ稀代の《ふらふら》だ」

「《ふらふら》ちゃアなんでえ」

老人が伸びっぱなしのぼさぼさの眉をひそめた。

「《ふらふら》たア、あーたみてえな人の事ですよ。鉄さん」

「なあに言いやがる、俺のこたア、雷震(らいしん)と呼びゃがれ」

老人の言葉に、英泉は呆れ声を出した。

「鉄さん、あーた、またア名前変えたんですか」

「ああ。前の名ア五両で売れたわ。その金で、あれを買った」

雷震が指さした部屋の奥に目をやると、

「あ、異国の絵だ!」

国芳は机上に広げられたその絵に飛びついた。

「お前、西洋画が分かるか」

「わかるも何も、大好物でさア。こちとら苦心して、銅版画集めようとして四苦八苦ですよ」

「そうか、分かるか。なら話をしよう。それア、銅版画とはまた随分違げえだろう」

「ああ、またこれア肉筆画のような・・・・・・」

雷震はしげしげ眺める国芳の傍まで来て、ふふんと笑った。

「そうだよ。それアまあ、俺たちで言やア肉筆画みてえなもんだな。筆に水をつけて異国の絵の具を溶いて描くのさ。山オランダ人のシーボルトてエのから買い上げた」

「すげえ、本物の異国の町が目の前にあるみてえだ」

その絵の中では、水は触れれば濡れそうなほど水らしく透き通り、空は今見上げる空と違わずどこまでも広がりがあり、木はより木らしく、人はより人らしく、その絵の中のすべてがまるで本物のような様相を呈していた。

「そうさ、俺達の絵とは大違いよ」

雷震が自嘲気味に言った。

「あ」、

国芳が他にも西洋画を見つけて、手元に引き寄せた。

「こっちゃア、日本橋じゃねえか・・・・・・!」

画像:葛飾北斎「江戸日本橋水彩画」ライデン国立民族学博物館蔵 出典 毎日新聞

確かに西洋画の筆致で、日本橋の魚河岸に押送船が次々に横付けされて活気づく様子が、精妙に描かれているのである。それだけではなかった。他にも何枚か同じように江戸の風景画が並び、月明かりの品川宿や、雪降る赤羽、橋場の渡し、両国橋などもまるきり西洋画風に描かれている。国芳は驚いて首をひねった。

「何でこねえに江戸の事を細かく描けるんだ?これを描いた異国人は、江戸に住んでるんですかえ」

雷震は弾けるように笑った。

「それを描いたなア、俺だ」

「え!?」

国芳は飛び上がった。

「ほんに、じいさんがこれを描いたのかよ!?」

「ああ、シーボルトが次回江戸に来る時に渡すように頼まれてな。異国の絵を真似て描くなア、これほど愉快な事アねえぜ」

「すげえ。じいさんはまるで司馬江漢、いや、それ以上だ・・・・・・!」

司馬江漢「三囲景」国立国会図書館蔵

司馬江漢は江戸を代表する洋風画家の一人である。国芳は膝を叩いて感心し、改めて一枚一枚を手に取った。

「なあ、国芳」

すげえ、すげえと繰り返す国芳を雷震は呼んだ。

「てめえ、これからの浮世絵をどう思う」

「ええっ?浮世絵?」

「テメエが描いてるもんだ。何でもいい、言ってみろ」

わっちゃア、と国芳は少し考えてから、口を開いた。

「わっちゃア浮世絵が大好きだ。浮世絵師を辞めるつもりもねえ。だが、焦りもある。今のままでいいのかって。今まで誰も描いた事のねえような面白え浮世絵を作らねえと、こういう異国の浮世絵師に吞み込まれちまうんじゃねえのかって」

雷震はプッと噴き出した。国芳が異国の絵描きの事も浮世絵師、と言ったのが可愛く思えたのだろう。

「そうだ。その通りだ。ようやくそうした目を持った奴が現れた」

「はあ」

「若え野郎は何かにつけてはやれ豊国だ国貞だ広重だ、そんなところを目指してちゃア、この国の浮世絵はやがて滅びちまう」

国芳はさりげなく歌川派を馬鹿にされた気がして少し青ざめた。しかし、目の前の精緻な西洋画を見るにつけ、雷震が言う事があながち嘘ではないのも分かる。雷震は構う事なく、続ける。

「俺達が目指すなア、もちろん分かってんだろう。なあ、国芳」

「異国の絵・・・・・・?」

そう言った国芳の目ははるか遠くを見据え、青みがかって見えるほどに澄んで輝いた。

「そうだ、そうとも」

雷震は手を打って喜んだ。

「しかも、ただ目指すだけじゃあつまらねえ。こいつを」、

と言って雷震は旧友と肩を組むように親しげに、その西洋画を指した。

「超えなきゃならねえ」。

「超える」・・・・・・

「そうだよ、国芳。真似るだけじゃ駄目だ。超えなけりゃア、な」

この老人は、自分が描き上げた精巧な西洋画にも満足していないらしかった。この雷震という素性の知れぬ絵師に宿る崇高な精神を思う時、世辞にも綺麗とは言い難い無精髭の面が、急に神々しく国芳の目に映り、不思議なほど大きな感動を覚えた。

「国芳、てめえにならどうもそれができる気がする」

「わっちに?」

「そう。わっちに、だ。ナアニ、できねえこたアねえ。人は思い立った瞬間から、何にでもなれらア。ちなみに俺の話だが、俺ア必ず百まで生きる。その頃には俺アとうに、この異国の浮世絵師を超えちまってるだろう」

「なあ、善」

雷震は、脇の英泉に話を振った。

「この国芳の野郎を、《ふらふら》だとてめえは言ったな」

「ああ、言いましたよ」

英泉は気だるげに答えた。国芳と雷震が語っている内容も、よその話、といった風情で素知らぬふりを決め込み、勝手に煙草盆を引き寄せて、一人でふかしている。

「俺の見たところこいつア、《ふらふら》じゃアねえ、《ひらひら》だな」

「《ひらひら》?」

英泉は雁首をこつんと叩いて、気のない顔をしてみせた。眉と眉の間がどうにも間の抜けた顔である。

「ああ。こいつアきっと、浮世絵と異国の絵の垣根をひらりと超えてゆく人間だ。だから、《ひらひら》」。

「そりゃアまた、随分と買いかぶりやしたねえ。あーしの事ア一度もそんなふうに言ってくれたこたアねえのに」

「おめえはどうせ、異国の絵なんざ目もくれねえだろ。どうも奇妙な情念というか、劣情が大きすぎる。その調子で恨みがましい女を描き続ければ生涯安泰だ」

「そりゃどうも」

英泉はべーっと舌を出した。

「《ひらひら》かあ」、

国芳はアハハッ、と明るく笑った。

「悪くねえなア、ああ。全然悪くねえ」。・・・・・・

ありがとうよ、じいさん。涼やかに笑いかけた国芳を見て、

「まったく、てめえみてえな野郎にお猶(なお)を嫁がせてえと思うよ」

ふと雷震がそんなことを言った。

「お猶って?」

「鉄さんの一番下の娘さんさ」

英泉が補足した。雷震は頷いて、

「あいつア、生まれつき目が見えなくてね。でも、てめえならきっと飽きさせねえだろう」

「歳は?」

「九つ」

ハッ、と国芳は膝を打って笑った。

「じいさん、わっちゃアもう三十路になろうってんだぜ?」

光源氏じゃアあるめえしと国芳が笑うと、

「死んじまったよ、去年の秋に」・・・・・・。

・・・・・・

昏い雷震の声に、一瞬の間が開いた。

「そ、それア・・・・・・」

国芳は二の句が継げずに口をパクパクさせた。

「鉄さんは、ご傷心で旅に出て、今年戻ってきたばっかりなのさ」

英泉は俯いて表情を見せずにそう言った。

「なあに、あいつの火の魂ア俺が全部食らっちまったのさ。俺アお猶の分まで生きる。さっき言ったろう。生きて生きて、百まで生きて、誰も見た事のない物を描きあげてやらア」

顔を歪めて苦しげに笑った雷震の顔には、娘の死を何とか理解しようとした父の哀惜と苦悩と、強い意志が深い皺となり刻み込まれていた。

「さア、国芳。俺の倅にゃなれねえと分かったら、もう帰りゃがれ。どこへでもひらひら飛んでゆけ。異国の浮世絵師ィ超えるまで、絶対会いに来るんじゃねえぞ!」

あ、と雷震は付け加えた。

「この絵はもらっとく。気に入った」

英泉が持ってきた国芳の絵数枚を、買うという。雷震は国芳に、ゴミの山から引っ張り出した九六銭を投げつけた。

「気に入ったわりに、しょっぺえなア」

英泉が口を挟むと、

「うるせえ、これでも精一杯だ」

「じいさん」、

国芳は銭を受け取り、にっこりした。

「ありがとう。わっちゃア、一生懸命描くよ」。

おう、と答えた雷震の間抜けた顔が、何故か国芳の胸に残った。

・・・・・・

「それにしてもよ、」

帰り道、ぽつぽつと歩きながら、国芳はそう言って首をひねった。

「雷震のじいさん、名を五両で売ったって言っていたが、そんな高く売れるなんざ、前はなんてえ名だったんだ」

「『北斎』さ」

「え」

国芳が、提げていた銭差しを地面に落とした。

「ほ、北斎い!?」

北斎自画像

「ああ。あーしの師匠の一人だ。知ってるか」

「知ってるも何も、知らねえ奴なんざ居るのか!?北斎は昔ッからわっちの心の師匠だぜ!?」

昔、一度だけ北斎の姿を見に行った事もある。

文化十四年に北斎が合羽干場の寺の境内で百二十畳の巨大な馬の絵を描くという派手な見世物を行った時、国芳は兄弟子の国直に連れられてこっそり火の見櫓の上から隠れ見た。あの時の感動は、今の国芳の原動力と言ってもいい。

「参ったなア、あのじいさんが、北斎かえ!?参ったなア!」・・・・・・

国芳は慌ててしゃがみ、地面の銭差しを拾った。その手が震えている。もとはと言えば英泉が「もう一人の《ふらふら》に会わせる」などと言ったから、てっきり同い年くらいのうだつの上がらない絵師に会わされるものと思って何の思案もなく付いてきたのだ。それが、長年憧れ続けてきた北斎と会う事になるとは。もっといい服を着てゆけばよかった、と考えてから、北斎はもっとひどい恰好だった事を思い直す。

「なに、そんなに好きだったか。初めに教えときゃアよかったな」

英泉は予想以上に取り乱した国芳を見て、申し訳なさそうに言った。

「北斎の師匠はわっちの事オひどく買いかぶってくれはしたが、期待に沿えずにひらひらどこかに飛んで行って、そこらへんの木にでも引っかかっちまったらどうしよう」

国芳は急に弱気な事を言った。北斎と約束したものの、依然として大した仕事もないのが現状だ。

「なあに、あーたは売れるよ」。・・・・・・

「え?」

英泉の意外な一言に、思わず国芳は首をひねった。

「鉄さんは滅多に弟子の名前なんて覚えねえ。だが、さっき師匠はあーたの事を、自分から『国芳』と呼んだ。鉄さんが名前を覚えた奴ア、よほど見所のある奴に決まってらア。あーたは、かならず売れるよ」、

それに、と英泉は付け加えた。

「それに、そういう奴じゃなきゃ、あーしがあの『北斎』に会わせたりしねえよ」。

「英泉師匠」・・・・・・

「憧れの北斎」に図らずしも会ってしまった国芳は、気持ちが落ち着くまで友人の佐吉の居る家に真っ直ぐ帰る気になれず、少し足を伸ばして英泉と二人で隅田川沿いの百本杭の辺りを歩いた。

「綺麗エだねエ」

英泉が珍しく素直に感嘆した。

燃えるような夕焼けが隅田川に落ちて、川面は心を映す水鏡のように紫や橙、混ざり合った様々の絶妙な色合いに揺れていた。

その中を一艘の猪木の黒い影が、すいとなめらかにその色彩を切り裂きながら水面を進むのがひどく美しくて、国芳は何だか泣きたいような気持ちになった。

(あの北斎が、わっちを、褒めてくれた)・・・・・・。

少し前まであり得る筈もなかった出来事が、現実に起こった。

自分の手の届かないところで、運命の輪が廻り始めているのかもしれない。

そんな気がした。

その夕焼けを、国芳は目に焼き付けるようにいつまでもいつまでも、見つめていた。

小林清親 向島百本杭の夕焼 JAODBより

■文政九年 新春

果たしてそうであった。

「あーたは売れるよ」、という英泉の言葉は、本人の予期するよりも早く現実のものとなった。

年明けに、国芳の百八十度運命が翻る日が突然にやって来たのである。

「芳さん!芳さん!起きろ!」

佐吉の長屋の奥で蓑虫(みのむし)のように寝ていた国芳のもとに、佐吉が転ぶようにして飛び込んできた。

「なんとかッてえ版元が、会いに来てるよ!」

「んあ?」

・・・・・・

文政九年、早春。

涎を食って寝ていた国芳のもとに、米沢町の版元、加賀屋吉兵衛が訪れた。

加賀屋は去年一度国芳が自ら画稿を持ち込み、突き返された苦い思い出がある。

「こりゃアこりゃア、遠いところからわざわざ、どちらさんでしたっけ」

国芳はそっけなくあいさつした。一度すげなくされた問屋に、こびへつらう愛想は持ち合わせていない。吉兵衛は去年と変わらず手をすりながら、

「吉原での水滸伝の件、お噂は聞き及んでおりますよ。さすがは、豊国先生の門下の国芳さんですな」

あれだけ冷たく突っぱねておきながら、何がさすがだ。国芳は棄き捨てたい気持ちになった。

「何の用でエ」

「そう目くじら立てずに、ね。実は、あなたに頼みたい仕事ができまして・・・・・・」

「なんでエ今更」

「まあまあ、そうおっしゃらず聞いてくだせえやし。あの時には理由があったのです。あたしらは確かにあなたの師匠にあなたの事を頼まれました。でも、何でもかんでも仕事をやれとは言われていません。あなたの師匠は、あたしらにこう言ったのです。『普通に転がってるようなしょっぺえ仕事ではなく、これはという大きな企画が持ち上がったら、あいつに任せてくだせえ』と」。

「ハア」

随分調子のいい事を言う版元だ。

「去年あなたがうちを訪ねてくださった時には、お恥ずかしながら、それに見合うような規模の企画がありませんでした。しかし今回、とうとうそれに値する大きな企画が持ち上がったのです」

どうか、お話だけでも聞いてください。

拝むようにされて、仕方なく国芳は頷いた。

気に食わない内容なら追い返してやればいいだけだ。

「で、話は何です」

「実はですね」、・・・・・・

・・・・・・

吉兵衛が話し始めて、半刻ほど経った。

話し終えた後、

「・・・・・・どうです」

吉兵衛は自信に満ちた顔をした。

国芳はじっと黙って腕組みをしていたが、最後に返事をした。

・・・・・・

「わっちのすべてを懸けて、この仕事、引き受けやしょう」。

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