【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第32話
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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第31話 文政九年 桜の三月
東都名所新吉原五丁町弥生花盛全図
文政九年、三月一日。
仲之町に、つい三日前まではなかった桜が今年も植えられた。
二代歌川広重「東都名所 吉原中之町」ボストン美術館蔵
みつはこの日初めて、国芳と桜を見た。
国芳の方から花見に誘ったのである。
みつの歩く一歩前に、国芳の広い背中が在る。
どんな絵師よりもきっと鮮やかな絵を描く国芳の目に、この桜はどう映えるのだろう。
そんな事を思いながらぽつぽつと後ろを歩いた。
「おみつ」、
国芳が急に振り返って、ふわりと手を差し伸べた。
繋いだ手が今までで一番、優しい。
こんな時にも桜が純白や薄灰にしか見えない自分の目を、みつは少し恨んだ。
「あたしやっぱり、もう一度だけでいいから、国芳はんと同んなじように桜の色、見たかったよ」、
みつは十二の時の熱病以来、色覚を失っている。
「国芳はんならきっと、この桜、綺麗に描くんだろうね」
「何言ってんだ」、
国芳は首を横に振った。
「わっちはこの桜を、今おみつの目に映る以上に綺麗に描けやしない。めえはもっとその目に自信を持たなきゃいけねえ」
国芳はみつを振り返って、にこりと微笑した。その笑顔が余りに清々しく澄み渡っていて、みつは泣きたくなった。
「うん」、
「そうだね」。
「あたし、忘れないようによっく目に焼き付けておくね」
「わっちもそうすらア」
今日だけは、国芳は矢立と筆を取りださなかった。京町一丁目の水道尻の方から大門に向けて二人でゆるゆると桜の並木を歩き、揚屋町のあたりで国芳は足を止めた。そして振り返り、みつの肩を掴んだ。
「なあ、おみつ、聞いてくれ」
いつになく真剣で思い詰めた目をした国芳に、思わずみつは破顔した。
「なあに」
「わっちゃア、仕事で今日以降しばらく来れねえ」、
みつの睫毛が、ほのかに揺れた。
「次がいつになるか、分からねえんだ」。
・・・・・・
「うん」
少しの間の後、みつは微笑んで頷いた。今までもそう頻繁に会えたわけではないし、国芳が売れれば今まで以上に会えなくなる事は自明であった。
「これから取り掛かる仕事は、今までのとは違げエんだ。『水滸伝』の揃物の武者絵だ」
「水滸伝の、武者絵・・・・・・」
国芳「九紋龍史進」Wikipediaより
みつの好きな、水滸伝である。
みつは口の中で噛みしめるように繰り返した。
「こねエだの大勝負の時にゃア一枚一枚手描きで時間もなかったから墨一色だったが、今度は日本橋の歴とした版元から出すからな、それア豪勢な多色刷りになるぜ。とんでもねエ色鮮やかな錦絵にしてみせらア。おみつの目にもその色が見えちまうくれエな。勿論、めえが何刻眺めても飽きねえように、線画もびっちり細かく丁寧に描き込む。今までめえが見た事もねえような面白エ絵に仕上げてやらア」
「うん」
「まずは、五枚出す。それが当たりゃアどんどん続きを出して、今までに見た事もねえくらいでっけエ揃物になるって計画だ」
「本当・・・・・・」
「安心しな、かならず当ててやらア。この吉原でも、皆がわっちの錦絵を買って集めたり飾ったり眺めたり、そんな光景が当たり前になるぜ。そしたらわっちゃア、めえに似合う豪奢な仕掛を染め上げて、大金持って今度は表門から正々堂々めえを迎えに来る。めえはその仕掛けを着て、わっちのもとに最後の花魁道中をすりゃアいい」
「夢みたい」・・・・・・
みつは眉をハの字にして微笑した。
「夢で終わらせねえ」。
「絶対よ」
「ああ、絶対。絶対だ。早いうちにかならず、かならず迎えに来る。だから、めえにゃア本当に苦労を掛けるが、それまでは何とか、紫野花魁として良い子に待ってな」
「うん。あたし、平気だよ」
「次にわっちの姿があの大門の向こうに見えたら、そッから先ゃアずうっと一緒だ」
「うん・・・・・・!」
みつは目をきらきらさせて頷いた。
「これ、交換だ」
国芳が、毎日欠かさず首から下げていた自分の掛け守りをしゃらりと外した。
「わっちゃアこれから毎日欠かさずこの掛け守りに、めえの幸せを願う」
「そんならあたしは、国芳はんの幸せを。・・・・・・」
みつも、懐から同じものを取り出して、国芳のものと取り替えた。
国芳は、不覚にも涙を落としそうになって狼狽した。
目の前の女は出会った時と何ら変わらずに、みずみずしく美しい色を持っている。
しかし表情までもこんなに色彩豊かだったろうか。
彼女は今ようやく一点の曇りなく晴れ渡った幸せな表情をしている。
ここまで来るのに、どれほど掛かったろう。思えばみつと出会ってから二度、四季が巡った。今はもう、三度目の春を沿って歩いている。
早春に出会い、夏に戯れ、秋に語らい冬に寄り添った。そしてまた同じ春が来ても、みつと過ごす季節はいつも新しく特別で、大切だった。
隅田川の大流のように色やかたちを変えながら滔々と流れゆく日々の中で、そこにあるのはたった一つ変わらずに、湧き水のように滾々と湧き続ける澄んだ思いであった。
立祥(二代歌川広重)「 東都隅田川八重桜」国立国会図書館蔵
「あ、たんぽぽ」。・・・・・・
みつがしゃがんで、足もとの黄色い花を指した。
「本当だ」
国芳はそれを摘み取り、女の前髪に挿した。
「あたし、国芳はんと出会う前はこの狭い鳥籠(くるわ)の中の事以外は何も知らなかった。本当に何も・・・・・・この、たんぽぽの花の名前すら知らなかった」
「ああ。でも今アもう知ってる。この花の名も、色も、匂いも。みイんな、おみつの手のひらの中にある」
挿した花と同じ、陽の差すような明るい笑顔を女はした。
(やっぱりめえは、たんぽぽみてえな女・・・・・・)
たんぽぽのように優しく可憐で、明るく逞(たくま)しく、そして美しい。
その透きとおった薄墨の瞳を四季折々の花のもとに見つけるたび、国芳は何度でも女に恋をした。
「おみつ」、・・・・・・
「めえが、好きだ」。
国芳は下を向いて、ふと呟いた。
めえじゃなきゃ、わっちゃアただのつまらねえ凧売りのままだった。
国芳は耳まで真っ赤にしながら、ぼそぼそと言った。
「あたしも」。
みつがとろけるように微笑(わら)った。
あたしもあんたじゃなきゃ、ただ色を失くした哀しい女郎のままだった。
「あたしたちは一緒じゃなきゃ、きっと駄目だった」。・・・・・・
枝垂れ桜の花の陰翳(かげ)で、二人は静かにくちびるを重ね合わせた。
葛飾北斎「鷽 垂桜」ボストン美術館蔵
夢中だった。
「時」はきっと、誰の前にも平等である。
二人が生まれる遥か昔からそこに横たわっており、そして二人が死んだ後も恒久的にそこに横たわり続けるのであろう。
たとえば今はもう誰にも覚えのない幾星霜も昔、この吉原仲之町のまさにこの土の上で、誰かが同じようにくちびるを吸ったかも知れない。
それは、今となってはもう当の二人にしか分からない事だ。
知られずに消えてゆく贅沢というのが、世の中には確かに在る。
地味な羽織の裏を贅沢にするとか、そういう事より更に秘匿された、二人の胸の内にしかないとろけるほど優しい記憶。
そういう贅沢である。
その、誰かの胸の内に仕舞われたままの無数の贅沢な時の積層の上で、二人はくちを吸った。
木の葉を濡らす月光のようにさらさらと、白銀の花びらが二人の肩口に降り注ぐ。
その姿は雲母(きら)で摺りあげた錦絵のように大切で、美しく尊いものに思われた。
大野麦風「桜と小鳥」出典JAODBより
くちびるを離した後、みつは静かに言った。
「あたしさっき、一度でいいから国芳はんと同んなじように桜の色を見たかったって言ったでしょう。やっぱりあれ、取り消す」。
どうして、と国芳はみつの薄墨の瞳を覗き込んだ。
「だって、国芳はんと出逢って、あたしの心は沢山の色彩で溢れた。それなのにその上自分の目で色を見たいなんて、贅沢すぎるもの。本当に、こうして国芳はんに出逢えただけで、あたし」、
この時のみつの眩しい笑顔を、国芳は生涯忘れなかった。
「生まれてきてよかった」。・・・・・・
こういう気持ちを錦絵にするとしたら、どんな風に描き、どんな色彩で摺ればいいのだろう。
露草色のみずみずしい朝明(あさけ)の風が、二人の間を吹き抜けた。
国芳の耳元を過ぎる時、その風が永遠と囁いたように聞こえた。
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