350年もの間、天皇に「朝ご飯」を届け続けた京都の餅屋・川端道喜

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350年もの間、天皇に「朝ご飯」を届け続けた京都の餅屋・川端道喜

天皇のために武士をやめ餅屋に

時は室町時代、応仁の乱で荒廃した都。

そのときの京都御所には後柏原天皇(1464~1526)がいらっしゃいましたが、彼は21年もの間「即位の礼」を行うことができませんでした。

なぜなら十年近く続いた戦乱のため年貢をとることもままならず、宮廷では日々の暮らしもかつかつ、御所の築地塀は倒れ、盗賊や一般庶民が堂々と入り込んでしまうほど無秩序に。

それをみかねたのが渡辺進という鳥羽の武士。彼は天皇のために餅を調達し、毎朝届け始めます。武士をやめ餅屋となり、「御朝物(おあさのもの)」というおはぎの原型のような食べ物を届けてその窮状を救います。

その習慣はなんと明治22年まで350年間も継続!「朝餉の儀」という名前が付くほどの儀式になります。

※写真はイメージです

渡辺進は同じ鳥羽村の中村五良左衛門を婿に迎え、五良左衛門は「渡辺道喜」と名乗ります。店が始まったのは文亀・永正の頃(1501~21)。その後、御所近くの藍染川のほとりに店を構えたので「川端道喜」と称するようになったのが永正9年(1512)頃のこと。そして「御ちまき司 川端道喜」という名で、現代まで続いているのです。

その後世の中が安定しても、「御朝物」の献上が一日も欠かさず続いていたことに頭が下がりますね。

御朝物はどのように届けられたのか?

御所に届けられた御朝物は、直径15センチほどのまん丸のおはぎのような形で、蒸した餅米を搗きまぜてそれを薄く餡で包んだものです。餡には砂糖ではなく塩が入っていて、どちらかというとさっぱりとした味わいだったようです。

御朝物はどのように届けられたのかというと、まず朱塗りの器に御朝物を入れます。御朝物を入れた器を、もう一まわり大きな朱塗りの器に入れます。そしてそれを唐櫃に入れて両端に晒布を輪にしてかけ、青竹を通して御所の庭まで運びます。それを女官に渡し、六個中の二個が天皇の前に出されるのです。

どれだけお腹が空いていても「おあさがきたぞ、それー!」とがっつく訳にいかないのが、位の高い方の辛いところですね。

今でもその川端家の痕跡が京都御所にて確認することができます。

道喜が通行する専用の門「道喜門」がそれです。勝手口のような小さな門ですが、いかに道喜に恩を感じていたのか窺い知ることができますね。

右手が道喜門

道喜はそれだけではなく、御所の修繕も行いました。大工や畳屋などに声をかけ庶民の手で御所を守ったのです。

初代道喜こと五郎左衛門は、隠居したあとは武野紹鴎という茶人の門下で茶道を学び、千利休などと親交を深め、茶会などの菓子を融通するようにもなったとか。今でも裏千家の茶会のお菓子の一つは道喜が用意するとのこと。

お正月には宮中に餅飾りを届ける

また、餅屋なので当たり前といえば当たり前ですが、お正月には宮中に餅飾りを届けていました。
この餅飾りがまた凄い。

三方にまずユズリハを敷き、白鏡餅・赤鏡餅をのせた上に葩(はなびらといって、薄く延ばした円い餅)12枚、小豆汁で色づけした菱餅12枚の順に積みあげます。
その上に昆布2枚を両側に垂らし、細俵をのせ、更に背合せにした 串柿、砂金餅、串柿、海老らを水引でくくります。

三方の四隅には橙2個、柑子(こうじ)2個を置き、周りにカヤの実・搗栗(かちぐり)・野老(ところ=山芋の一種)・柑子・枯露柿(ころがき)を並べるという、豪華な物でした。

※画像はイメージです

というか、三方にこんなに具材を載せられるものなのでしょうか?三方そのものが巨大なんでしょうね。庶民には想像できない代物です。

現在のお店の名物「水仙粽」は、吉野葛に上白糖を加えて練り上げ、笹の葉に包んで蒸したもの。笹の葉を解いて広げると、その香りがふわっと漂います。古来からの製造手法を変えずに丁寧に作られています。また、西では新年を言祝ぐ風物詩、花びら餅も人気です。

受け取り日時が完全指定の予約制で、一般には手に入れることは難しいかもしれません。しかし一度は銘菓中の銘菓を味わってみたいものですね。

※画像は他の店舗の花びら餅です

参考文献:「京菓子」調理科学研究会(国立国会図書館より)

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