没後20年、ジャイアント馬場の元番記者がいま明かす「素顔」と「秘プラン」 (2/3ページ)

日刊大衆

当時、全日本プロレスは長州力率いるジャパン・プロレスと業務提携を結んでいたが、3月に長州ら約10人のレスラーが古巣の新日本プロレスにUターン。戦力の低下を余儀なくされた馬場は、週刊プロレスの誌面を通じて怒りをあらわにした。

「契約というものを簡単に考えてもらっては困る。俺は命まで取ろうと言っているのではない。契約書には命まで取るという規約はないんだ。契約をクリアさえしてくれれば、俺はなんにも言わん。答えはもう出ているんだ」

 事態を収束させるには、違約金の支払いしかないことを、馬場は示唆した。

 正論である。だが、ファンの視線は民事裁判の行方よりも、新日本に戻った長州グループの動向に集まる。

 そもそも非日常の空間を提供するプロレスにおいて、正論や契約を持ち出す馬場のほうが無粋である。そんな空気さえ蔓延していた。

 ファンの支持を得られない馬場。苦難の時期だった。取材陣が近づくと、葉巻の煙をプカーッと吐き出し、バリアを築く。それが日常のよくある風景だった。

 さかのぼること約43年。新潟県立三条実業高校(現・三条商業高校)の1年だった馬場は、そもそもは野球少年でありながら、その巨体ゆえ足に合うスパイクがなかったことから、美術部に所属していた。

 だが、野球部顧問の計らいによって特注スパイクを得ると、高2の春。晴れて野球部に入り、その秋には読売巨人軍からスカウトを受けるまでになった。

 高校を中退して、夢のプロ野球選手へ。そして、馬場は“契約社会”の中で青春時代を過ごすことになる。

 巨人軍には5年間、在籍した。だが、一軍登板は3試合にとどまり0勝1敗。芽が出ないまま59年秋、クビになった。その後、風呂場で転倒するというアクシデントも重なり、野球の道を断念。

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