明治時代に持ち込まれた概念「Right」は権利?権理?福沢諭吉の「理」へのこだわり

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明治時代に持ち込まれた概念「Right」は権利?権理?福沢諭吉の「理」へのこだわり

明治時代、欧米から多くの新しい概念が日本に持ち込まれましたが、その中に「Right」という言葉がありました。

Rightは「権利」と和訳され、現代でも広く知られている概念ですが、これに異を唱えたのが福沢諭吉。彼はRightが権利ではなく、権理と訳すべきと主張しました。

いったい権利と権理、この二つの言葉にはどのような違いがあるのでしょうか。

権力・権限は「理」のためにこそ

「……地頭と百姓とは、有様を異にすれどもその権理を異にするにあらず……」
「……権理通義の四字を略して、ここにはただ権義と記したり。いずれも英語のライト、right という字に当たる……」
※福沢諭吉『学問のすすめ』より。

福沢諭吉はRightの概念を「権利」ではなく「権理」あるいは「権理通義」などと訳し、用いています。

通義とは文字通り「義に通ずる」意味で、すなわち(道)理を意味します。つまり天下公益、現代的に言うなら「公共の福祉」に適う=理に適った社会のあり方を追求するために必要な権力・権限こそが「Right」である、という考えです。

権力は、道理のために行使するもの(イメージ)

まず社会のあるべき姿や追求するべきビジョンを考えた上で、その実現には社会の構成員たる個人の幸福が不可欠であるという「理」に基づいて保障されるRightは、やはり権理と訳すのが適切ではないでしょうか。

暴走する「権利」を懸念

その一方で「権利」はどうでしょうか。

もちろん追求した「利」が天下公益に供することもなくはないでしょうが、その利は必ずしも理に適ったものとは限らず、往々にして私利私欲のために社会公益を損なってしまう事例は、古今東西枚挙に暇がありません。

いわゆる「モンスター〇〇」などまさにその悪例で、事あるごとに「権利」をはき違えて自分たちの利益ばかりを要求して、他人の迷惑などはお構いなし。みんながみんな際限なく私利私欲を追求したら、遠からず社会は破綻してしまいます。

私利私欲の追求(イメージ)

そういう概念はそもそもRightではなく、仮にあったとしてもそんな悪しき欲望を日本に採り入れたくなかったからこそ、福沢諭吉は権利の暴走を懸念し、異を唱え続けたのでしょう。

まとめ

「米国があなたのために何をするかを問うのではなく、われわれが人類の自由のために、一緒に何ができるかを問うてほしい」
※1961年、ケネディ大統領の就任演説より。

演説するケネディ。Wikipediaより。

個人は社会におけるお客様ではなく、共に社会を支え、よりよいものにしていくスタッフでありパートナーであり、主人公である。

そうした主体性をもって社会に参加して欲しいし、そのために必要なRightこそ、国家の主権者たる「権理」である。

維新が成り、政治の門戸が開かれた明治の世なればこそ、福沢諭吉は多くの日本人に対して「権理」をこそ訴え、呼びかけたのでした。

そんな福沢諭吉の思いは、現代の私たちと社会との関係性にも深く通じます。

※参考文献:
福沢諭吉『学問のすゝめ』講談社学術文庫、2010年3月19日 第11刷

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