言葉は相手の為にこそ。山岡鉄舟が清水次郎長に教えられた真の「頭のよさ」とは?
よく「頭がいい」なんて言いますが、その定義は人によって様々です。難しい問題が解けたり、色んなことを知っていたり、ここ一番でよい智慧をひねり出したり……いずれも「頭がいい」とは思いますが、それだけでは今一つ足りません。
今回はその一つが何なのか、考えさせられるエピソードを紹介したいと思います。
仏に官軍も賊軍もねぇずら……次郎長の義侠心時は明治、徳川家達(とくがわ いえさと。最後の将軍・慶喜の養子)に従って江戸から静岡(家達の移住に際して駿府より改称)へ移り住んだ山岡鉄舟(やまおか てっしゅう)は、地元の侠客「海道一の大親分」こと清水次郎長(しみずの じろちょう)と意気投合、静岡藩(後に静岡県)の政治に一致協力することになりますが、そんな二人の出逢いは、次郎長の義侠心がキッカケでした。
在りし日の咸臨丸。Wikipediaより。
明治元1868年9月18日、旧幕府海軍の軍艦・咸臨丸(かんりんまる)が清水港に停泊していたところを新政府軍が襲撃、乗組員は全滅。彼らの死体は新政府軍の咎めを恐れて誰も手を出さず、清水湾内を漂い、腐敗するままとなっていました。
これを座視するに忍びなかった次郎長は手下に命じて死体を引き上げ、向島の砂浜に埋葬します。
当然、新政府軍はこれを咎め立てますが、次郎長は「人間うっ死(ち)にゃあ誰もが仏、仏に官軍も賊軍もねぇずら」と毅然たる態度で突っぱねます。
次郎長を激賞する山岡鉄舟。Wikipediaより。
それを知った山岡鉄舟は「近年まれに見る気骨の士である」と次郎長を称賛、得意の筆で「壮士墓(そうし=立派な男の墓)」と揮毫し、現代でも墓標に刻まれています。
先生の何が大ぇして立派なンだか……次郎長の苦言さて、そんな事から始まった鉄舟と次郎長のつき合いですが、鉄舟にとって次郎長は「学問を超えた智慧」の持ち主であり、その嗅覚と直感に少なからず影響を受けたようです。
二人がつき合って間もない頃、次郎長がこんな事を言いました。
鉄舟に苦言する清水次郎長(イメージ)
「よぅ先生。おらぁ先生がみんなから『大ぇしたもんだ、立派なもんだ』なんて言われているが、いざこうしてつき合って見ると、一体ぜんたい先生の何が大ぇして立派なンだか、俺にゃあさっぱり解ンねぇずら」
要は「お前ェなんぞ大ェした事ァねぇ」と言っているのと同じで、随分な挨拶もあったものです。普通ならここで怒り出すなり絶交なりするものですが、鉄舟は「次郎長ほどの人物が言うのだから、そこに教訓がある筈だ」と、謙虚になってその理由を訊ねると、
「俺ァ先生の書いて寄越す手紙がいっさら読めねェずら。まァ学のある先生のこったからありがてぇ文句でも書いてあンだろうが、難しい言葉を丸呑みに覚えてそのまま言うなら九官鳥だって出来るじゃんけ……相手が読めねぇようなモン書いて寄越す人間が立派とは、俺にゃァどうしても思えねェずら」
そう聞いた鉄舟は、深く感じ入ったそうです。
まとめ自分は永年にわたり学問を修め、剣・禅・書などたゆまぬ精進を重ねてきた……そんな「高尚さ」に対して、無意識の驕りがあったことを、鉄舟は自覚させられたのでした。
智慧も知識も世のために役立てねば何の価値もないように、言葉は相手に伝わらなければこれまた無意味な呪文に過ぎない。
そう悟った鉄舟は、以来自らの学問や教養をひけらかすことなく、何事も「相手が理解できるように、意味が伝わるように」心がけたそうで、次郎長への手紙も平仮名が多く、シンプルな文言で書かれるようになったという事です。
常に自らを高めつつ、その高尚さに驕ることなく相手を思いやる鉄舟の精神は、現代に生きる私たちにとっても学ぶところ大と感じます。
※参考文献:黒鉄ヒロシ『清水の次郎長 上』
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