優しさが命取り!新選組の中で唯一、女性問題で切腹した組長がいた! (2/3ページ)
その時のいで立ちが坊主頭に白い鉢巻きで大薙刀を構えていたので「今弁慶」と呼ばれていました。
歌川国芳画:義経 弁慶と五条の橋で戦ふ/Wikipediaより
このような格好しているので見た目的に怖そうなイメージがあると思いますが、「親切者は山南と松原」の言葉が残っているくらい温厚な性格でした。
八月十八日の政変の際に山南敬助が自分の鎧がないことに対して怒っている時に忠司が宥めたという話があるくらい非常に温厚な人物でした。
その後の元治元年(1864)の池田屋事件では土方歳三の隊に所属し武功を挙げました。続く禁門の変では天王山に潜伏する長州勢の追討を行うため、天王山攻略に随行しました。
土方歳三/Wikipediaより
数々の戦いで実力を見せた忠司は慶応元年(1865)3月の西本願寺移転による隊編成で4番隊組長と柔術師範頭に任命されました。
死因はとある女性との心中だった…慶応元年(1865)3月に組長に任命された忠司でしたが、その年の6月には平隊士に降格しています。この原因は諸説ありますが、特に有名なのが女性との心中です。
これは酒に酔った忠司が浪人と口論になり殺害した浪人の妻の面倒を見ていることを上層部に見つかってしまうという内容です。