プロレスラー世界遺産 伝説のチャンピオンから未知なる強豪まで── 「力道山」“日本プロレス界の父”の企画力と先見の明 (1/2ページ)
「総理大臣の名は知らなくとも、力道山を知らぬ者はいない」とまで称された戦後最大級のヒーロー。今ではその複雑な背景や人間性などから、アンチ・ヒーローとして語られることも増えているが、それもまた一面的なことにすぎない。
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力道山が亡くなってから56年がすぎた今、その戦いぶりをリアルタイムで見たというファンはいったいどれほどいるだろうか。力道山の経歴を改めて振り返ると、プロレスでの活動期間は10年余りしかなく、その短さに驚かされる。
現役選手と比べると、オカダ・カズチカの新日本プロレス移籍後が12年(闘龍門時代を含めれば15年)。同じ相撲からの転向組では、2005年から本格的にプロレス参戦した曙が、ほぼ同じくらいの経歴。力道山の活躍ぶりのすさまじさが実感できる。
今も語り継がれる名勝負、シャープ兄弟とのタッグ戦や木村政彦との昭和巌流島決戦、ルー・テーズからのインターナショナル王座奪取などが、いずれもデビューから5年以内のことだったというのも驚きだ。
「大相撲での実績があったとはいえ、その程度のキャリアで日本中を熱狂させるファイトを見せたというのは、やはり天才だったとしか言い様がない」(プロレス記者)
力道山によるプロレスブームを「戦後、自信をなくしていた日本人が、白人をぶちのめす力道山に快哉を叫んだ」などと説明されることは多い。確かにそうした面はあろうが、しかし、それだけの理由であったならば、なぜ「日本プロレスより先に本格的な興行をスタートさせた」と言われる山口利夫の全日本プロレス協会は、うまくいかなかったのか。
「そこはやはり、力道山の企画力や先見の明があってのことでしょう」(同)
まず大事なテレビ中継の初戦に、タッグマッチを持ってきたというのが非凡であった。
元来1対1の対決を重く見る日本人の気質と自身の売り出しということを思えば、まずシングル戦でというのが普通の考え方。そこにタッグ戦を持ってきたのは、力道山自身が「プロレスの面白さがどこにあるのか」ということをしっかり認識していた証しである。