政治とスポーツは無関係か?”民族”の認識のズレ「いだてん」第35話 振り返り
「いだてん」第35話「民族の祭典」が放送されました。
1940年大会、実質東京とヘルシンキによる獲得争いになりましたが、開催国は日本に決定。勝ち取るためには中国の票を得る必要がありました。
印象的だったのは、当時日中関係は最悪だったにもかかわらず、IOC中国代表の王正廷が「同じアジア人として東京を支持するしかなかった」と日本に票を入れたことです。
決して日本を好意的にとらえて票を投じたのではなく、「スポーツと政治は関係ない」という考えによる一票でした。そこには「同じアジア人だ」という民族意識があったと思われますが、この第35話「民族の祭典」では、「民族って何?」という問いが何度も投げかけられているように感じられます。
(※ちなみに、今回のタイトルである「民族の祭典」はベルリン大会の記録映画「オリンピア」の日本公開時のタイトルです。)
ポジティブに、ではないものの、同じアジア人として中国代表が東京に投じてくれたことを喜んだ直後、まーちゃんはIOC代表のラトゥールから「日本代表としてヒトラーに感謝するように」と耳打ちされます。
つまり、まーちゃんはここで、東京大会開催決定にヒトラーが関与していたことを知るのです。開催国決定は平和的なものでは決してなく、既にスポーツと政治は密接に結びついてしまっている。まーちゃんはベルリン大会を自分の目で見ながら、それをまざまざと痛感するのです。
五輪旗と並ぶハーケンクロイツ。日本選手団は軍帽をかぶり、選手村では「ハイルヒトラー」が流行語に(それも笑いとして消費されることにまーちゃんは異様さを感じるのです)。
のちにプロパガンダ映画と評される「オリンピア」ヒトラーはもともと「ユダヤ人の祭典だ」としてオリンピック開催に難色を示していましたが、プロパガンダに利用できるとわかると、積極的にかかわるようになります。
ヒトラーが高く評価したのが、オリンピックの記録映画である「オリンピア」です。スポーツ選手の身体美を強調し、アーリア人の優位性を世の中にアピールした作品。邦題の「民族の祭典」の「民族」とは、ここでは「アーリア人」のみを言うことがはっきりとわかります。
ベルリン大会時にはすでにナチスによるユダヤ人迫害政策は進んでいましたが、大会中は人種差別政策が一時中断していたそうです。しかし第35話では、短距離走で金メダルを獲ったアフリカ系アメリカ人選手とはヒトラーが握手をしなかったこと、選手村で怯えるように「ハイルヒトラー」を繰り返すユダヤ人スタッフ……。
彼らはオリンピック中は「ドイツ人」として働いているのですが、彼らの様子から決してドイツ人と同じ「民族」として扱われていないことがわかります。
祖国の国旗・国歌で表彰されなかったマラソン日本代表ベルリン大会では、日本がマラソンで初めて金メダルを獲得します。しかし、金メダルを勝ち取ったのは日本統治下の朝鮮出身・孫基禎選手でした(銅は同じく南昇竜選手)。
孫基禎 (Wikipediaより)
彼らは「オリンピックに表彰式というものがあり、国旗を掲げて国歌が演奏されるということを知らなかった」と語りの五りんから説明がありました。彼らは日本代表として出場していても、朝鮮出身であることを誇りに走ったのです。現地でサインを求められた際はハングルで名前を書き、「Korea」と併記したそうです。彼らにとってそれがアイデンティティだったのです。
一方、日本で応援する四三や辛作の認識は違います。辛作は「自分がつくった足袋で走るなら、日本人であろうが朝鮮人であろうが、アメリカ人、ドイツ人、誰だって応援するし、勝ったらうれしい」と言い、四三は「孫くん頑張れ、南くん頑張れ」と同じ仲間として応援しています。
朝鮮人選手として自国の国旗・国歌で表彰されなかった悔しさを想像しながらも、日本代表として活躍した二人を同じ仲間として応援する、「平等」「対等」「分け隔てなく」……。そこに差別意識などなく、平和的な反応でした。
ですが、「民族」の認識は同じでしょうか?怯えながら「ハイルヒトラー」とナチス式敬礼をするユダヤ人スタッフと、ギャグのように使う日本選手たち。日本選手として出場しつつも、実際は日本人ではない朝鮮人選手たち。
優位に立つ者とそうでない者の間には、無意識的に「民族」の認識にズレがある。スポーツと政治が結びついてしまった現実を描きながら、それでもスポーツを平和的に捉える人々の中の無意識な「異様さ」が、それに気づいたまーちゃんを通じて客観的に描かれた。そんな回でした。
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