田中角栄「怒涛の戦後史」(11)内閣総理大臣・池田勇人(中) (2/2ページ)

週刊実話



 しかし、ヘタをすれば内閣の命取りにもなりかねなかった発言だけに、首相になる前には「貧乏人は麦を食え」などの放言、失言で知られていた池田も、さすがにこうボヤいたのだった。「“失言の池田”が、人の放言の尻拭いをするようになったのか」と。

 これを耳にした田中は、政調会長更迭にビクついたのか、さすがに意気消沈、「ひげでもそらなきゃならんかなぁ」と口にしたのだった。当時、「チョビひげ」は田中の代名詞でもあったのである。

 もっとも、このひげの一件を、当時、まだ米国留学中だった娘の真紀子(のちに外相)が現地の報道で知り、「ヤジ(オヤジの意)ヒゲソルナ」の“ウナ電”(至急電報)を打ってきたことで、田中もそるのを思いとどまったというエピソードがある。

★「田中の大蔵だけはダメだ」

 田中のそうした政調会長就任から1年後の昭和37年7月、池田は党役員人事とともに第2次内閣を改造した。

 このとき、池田は閣僚人事の骨格を、自らの大蔵省時代の後輩で信頼してやまぬ前尾繁三郎幹事長と、大平正芳官房長官に、「任せる」と“丸投げ”したのだった。学者肌の前尾は入閣への野心なしで幹事長留任、赤城宗徳総務会長も留任となった。こうなれば、同じ党三役の田中政調会長も留任かと思われたが、底流では“異変”が起きていた。

 骨格づくりを任されたはずの前尾は、政界のドロドロした駆け引きは好まずで、「大平君、任せるから君がやってくれ」であった。当の大平はこれをいいことに、「これからの自民党の政治は、自分たちが責任を持ってやっていくのだ」の自負のもと、仲のよかった田中角栄と呼吸を合わせ、大平自らは官房長官から外務大臣に横すべり、田中を大蔵大臣とした組閣名簿をつくって池田に差し出した。

 しかし、この組閣名簿を見た池田は、まず「田中大蔵大臣」を見て目をむいた。それまでの蔵相ポストは、大蔵省出身者が就くことが恒常化しており、ましてや田中は東大法学部卒業でもない尋常高等小学校卒であり、年齢もかつて例のなかった44歳という若さである。これでは、内閣が持たないだろうとの危惧であった。池田は大平に向かって、こう言った。

 「田中が、なぜ大蔵なのか。放言はするし、危なっかしい。田中の大蔵だけはダメだ。代えろ」

 しかし、大平は引き下がらなかった。その後、これをきっかけに大平と田中は「盟友」関係の絆を強めていくことになるのである。
(本文中敬称略/この項つづく)

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【著者】=早大卒。永田町取材49年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『愛蔵版 角栄一代』(セブン&アイ出版)、『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。
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