悲劇の英雄「楠木正成」がなぜ悪党なのか?「悪党」という言葉の意味の変遷

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悲劇の英雄「楠木正成」がなぜ悪党なのか?「悪党」という言葉の意味の変遷

楠木正成は後醍醐天皇に忠節を尽くした「忠臣」であり、南朝のために戦い散っていった悲劇の英雄です。

正成は“ゲリラ戦”を得意とした戦略家であり、有名な千早籠城戦(大阪府千早赤阪村)では、幕府方の大軍を相手に大石を投げたり大木を落としたりなどして応援しました。

楠木正成像(楠妣庵観音寺蔵)wikipediaより

鎌倉幕府が滅亡したあとも、後醍醐天皇の正成に対する信任は厚く、建武の新政権では正成を河内・和泉両国守護などに任じたほか、記録書・恩賞方・雑訴決断所にも参画させエイル。つまり、正成は新政権で天皇の側近になりました。

ところが後醍醐天皇は、天皇中心の王朝政治をめざし、公家や寺社を偏重した政治を行うようになりました。このような動きを受けて、足利尊氏が反旗を翻すようになると、新政権に不満を抱いていた諸国の武士らが尊氏のもとへとはせ参じました。

ところが正成は後醍醐天皇側に残り尊氏の軍勢と戦い、1336(建武3)年、湊川の戦いで討ち死にしてしまいました。このような史実から尊氏は「逆臣」として非難され、正成は忠臣として称賛されるようになります。

そんな楠木正成ですが、後醍醐に使える以前は河内を本拠として活躍していた「悪党」と呼ばれていました。

このような経緯から、正成を河内のいわゆる“やくざもの” や “ごろつき”だった正成が後醍醐天皇に召し抱えられたことから改心して、やくざ稼業から足を洗い、その後は天皇に己の命を捧げて仕えるようになったという風に思い込んでいる方が少なくありません。

しかし、それは誤解です。

当時の「悪党」は現代でいう悪党とはかなり意味が異なり、やくざ者やゴロツキのことではありません。「悪党」とはもともと周縁領主に対抗する地頭や非御家人の新興の武士たちのことを指す言葉でした。彼らは年貢の納入を拒んだり荘園内の秩序に従わなかったりしました。

13世紀末、播磨国の大部荘で武装した数百人の悪党が数千人の人夫を率いて荘内に押し入り年貢米や牛馬などを略奪するという事件が起きました。

この集団のなかに「河内の入道」というものが参加していましたが、この人物こそが正成の一族のもの、あるいは正成の父親ではないかと考えられています。

裏切りや寝返りが当たり前だったこの時代、長く後醍醐天皇に忠実に仕えたその姿は「忠臣」であり、まさに日本を代表する英雄といっても過言ではありません。

参考:小泉 宜右 『悪党』

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