その手があったか!人々の心を見事に掴んだ織田信長の「引っ越し」エピソードを紹介【上】

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その手があったか!人々の心を見事に掴んだ織田信長の「引っ越し」エピソードを紹介【上】

戦国乱世を駆け抜けた風雲児として、強烈な個性を輝かせた織田信長(おだ のぶなが)

若き日の「大うつけ」ぶりから「天下布武」の壮大なスケールまで、他の大名たちとは一線を画した信長ですが、その特徴の一つに「戦略状況に応じて拠点を引っ越した」ことが挙げられます。

多くの大名たちは、武田信玄(たけだ しんげん)なら甲斐の躑躅ヶ崎(現:山梨県甲府市)、上杉謙信(うえすぎ けんしん)なら越後の春日山城(現:新潟県上越市)など、どれだけ勢力を拡大しても本拠地は変わらないことがほとんどでした。

信長の居城の一つ、清洲城。

対して信長は勝幡(しょうばた)城で生まれて古渡(ふるわたり)城で元服、那古野(なごや)城⇒清州(きよす)城⇒小牧山(こまきやま)城⇒岐阜(ぎふ)城⇒安土(あづち)城と、生涯にわたって居城を4回以上も変えています(諸説あり)。

状況に応じたフットワークの軽さこそが拡大する戦線の諸方へ隙なく睨みを利かせ、柔軟かつ大胆な戦略を可能にしたとも言えますが、その「引っ越し」に付き合わされる家臣や領民たちはたいそう難儀した事でしょう。

しかし信長もそうした「下々の思い」はよく理解していたようで、今回は信長の引っ越しエピソードを一つ紹介したいと思います。

「移転先は二ノ宮山に……」信長の決定にみんな大ブーイング

時は戦国・永禄五1562年の末ごろ、信長は家老衆を引き連れて二ノ宮山(にのみややま。現:愛知県犬山市の本宮山)へ登りました。

険阻な道をどうにか踏破、山頂から周囲の山々を見渡しながら、信長は

ここを新たな居城と致そう。ついては、あちらの嶺に誰それの屋敷を、こちらの谷には何某の屋敷を建てさせよ……」

「皆の者、異論あるまいな?」

【原文】ここの嶺には某、かしこの谷合いを誰々拵え候(そうら)え……
※『信長公記』より。

などと、えらく具体的な指示を出しました。

当時、尾張国(現:愛知県西部)を統一し、東の今川義元(いまがわ よしもと)を桶狭間の戦いで撃破した信長は、次に北の美濃国(現:岐阜県南部)を制圧する足がかりとして、居城(現:清州城)の北上を計画。

そこで新たな居城の候補として険阻な地形を活かした二ノ宮山が選ばれた訳ですが、この決定に対して家臣や領民たちの不満は並大抵ではなかったそうです。

【原文】難儀の仕合せなりと上下迷惑大方ならず……
※『信長公記』より。

清州城はその名が示す通り、城の脇を流れる五条川をはじめ水運に恵まれた場所であり、尾張国の富が集まってくる中心地でもありました。

そんな便利な清州から、いきなり二ノ宮の山中へ移住させられるとなれば、いくら主命だからと言っても嫌なのは当然です。

※もちろん領民たちには「清州に居残る」選択肢もなくはなかったでしょうが、農民ならばともかく、商人たちは経済の中心地から離れる不利を考えると、渋々ついて行ったことでしょう。

「まったく、やり切れんわい……」

いつの世も、引っ越しは大変(イメージ)。

これから始まる移住の骨折りと、山中での不便な暮らしを想像しては、誰もがうんざり。清州じゅうにみんなの不満が満ち満ちていったのでした。

【続く】

※参考文献:
和田裕弘『信長公記―戦国覇者の一級史料』中公新書、2018年10月5日 4版

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