中曽根康弘の「戦後最大のパフォーマー」秘話(1)「突撃精神」が中曽根流パフォーマンス (2/2ページ)

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 また、中曽根はこの初入閣がよほど嬉しかったようで、「このポストは、私にとって大将(総理)へ向かってのスタートになる」と公言、同時に大変な自信も得たようで、翌年には自ら新聞に「首相の国民投票制」なるものを投稿したのだった。この言うなら「首相公選論」の提唱は、自ら総理のイスへの近道を模索したのがミエミエだったのである。

 あるいは、この「首相公選論」には、“続き”があり、その後、中曽根の選挙区の群馬県には、「首相も恋人も、あなたが選びましょう」とのカンバンが、田畑、野原におびただしくも立てられたのだった。まさに“我田引水”といったところである。

 やがて、政権が池田勇人の時代になると、南極視察に手を挙げ、南極のポールに「日の丸」を掲げたまではよかったが、堂々となりに「首相公選の旗」なるものも掲げてみせるなど、それこそ耳目を集めそうなことにはあらゆる神経を使っていることが証明されたのだった。

 一方、政権がその池田から佐藤栄作に代わると政界遊泳術の巧みさ、すなわち嗅覚鋭い「風見鶏」がフル回転することとなる。

「佐藤批判の精神を貫く」とブチ上げ、まずは急逝した農林大臣などを歴任した実力者の河野一郎(現・防衛相の河野太郎の祖父)が率いた河野派の大半を糾合、小なりとは言え中曽根派の旗揚げに動いた。

 ところが、「反佐藤」ゆえの冷やメシ期間の長さにシビレが切れたか、その第2次内閣で運輸大臣のニンジンをぶら下げられると、いとも簡単に飛びついてしまった。親分の“変節”に収まらないのが中曽根派の面々で、不満の声が噴出する中、中曽根いわく「犬の遠吠えでは効果がない。刀の切っ先が相手に届く必要がある。佐藤さんのために入閣するのではなく、政治家として国家国民のために働くためである」とかわしてみせたのだった。中曽根が軍門に下ったことを見届けたかのように、佐藤はこのあとも引き続き、第3次内閣でも防衛庁長官に起用したのである。

■中曽根康弘の略歴

大正7(1918)年5月27日、群馬県生まれ。東京帝国大学法学部から内務省入省。海軍主計主査。警視庁警視などを経て退職。昭和22(1947)年民主党から衆議院議員初当選。昭和57(1982)年11月、内閣組織。総理就任時64歳。令和元(2019)年11月29日、老衰のため死去。享年101。

総理大臣歴:第71~73代 1982年11月27日~1987年11月6日

小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。

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