どこか同情を覚えてしまう…。多彩な能力を発揮し織田信長の重臣として活躍した明智光秀 (2/2ページ)

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だが、合理主義者の信長は好き嫌いで武将らを評価することはありませんでした。天下取りのためには、相性が合おうが合うまいが能力のある者を評価し重用しています。光秀に対しても評価は同じでした。

信長の重臣として活躍した光秀

1571(元亀二)年、信長は比叡山焼き討ちのあとに光秀に恩賞として近江国(滋賀県)滋賀郡に所領を与えたますが、これによって光秀は信長の重臣としてトップクラスになります。

その後、光秀は坂本城(滋賀県大津市)を築き、城主となりますが、坂本城は要衝の城であり、安土城い次ぐ「天下第二の城」といわれました。信長は自分の居城に次ぐ大事な城を光秀に預けており、それだけ光秀を信頼していたということになります。

さらに1579(天正七)年、光秀が丹波を平定すると、その翌年に信長は恩賞として丹波一国を光秀に与えており、光秀に対する評価は重臣らのなかでも群を抜いていたことがわかります。

実際、光秀は軍事・築城・行政・外交など多くの分野で能力を発揮しており、野望説のいうとおり天下をねらつてもおかしくない逸材でした。信長が天下取り寸前というところまで権勢を拡大することができたのも、光秀の尽力に負うところが大きかったといえます。

それに連歌にも秀で、連歌会を催すなど教養も高かったようです。

光秀が単に武芸に秀でただけの武将で、信長に忠誠心が高かったのなら信長との関係もも長く良く続いたはず。信長は有能すぎる家臣をもったことで、身を滅ぼすことになったのかもしれませんね。

参考:戦国武将列伝Ω

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