明智光秀が台頭する前の謎の期間は医療知識を得ていた?光秀が伝えた薬「セイソ散」とは
大河ドラマ「麒麟がくる」では、斎藤道三(さいとうどうさん)の奥方のために京都から医者を連れてくる話がありましたね。明智光秀(あけちみつひで)の前半生は知られていないことが多く、実は謎に包まれています。しかし、医療の面から、光秀がどんな武将と関わりがあったかが判明しようとしています。
戦国時代、「金瘡(きんそう)」と呼ばれる、傷による緊急手術への知識をまとめた医療分野がうまれました。各武家は独自に医術を変化させ、さまざまな流派があったといいます。
高度な医術が敵に知られたら戦争が不利になることもある時代、各武家は一族だけに伝わる秘薬を所持していました。時代が違いますが、「金瘡」の表記のある資料を添付します(1行目)。
「金瘡秘術密方」百崎重国 伝(文政9年):国立国会図書館 ※一部抜粋
そして近年、熊本県で発見されたという医学書『針薬方(しんやくほう)』に、「セイソ散」なる薬が光秀からもたらされたという記述があり、話題に。
これは光秀が初登場した文献で、足利義昭に仕えた米田貞能が1566年に書き写したものなのですが、その元となる本は「近江田中城」に籠城した際に、足利将軍家に仕えた沼田勘解由左衛門尉(ぬまたかげゆざえもんのじょう)が光秀から聞いたものだというのです。熊本で発見されたのは、その米田がのちに熊本の肥後細川家の家老となったためと思われます。
近江田中城というのは田中氏の居城で、『信長公記』によると、1570年に織田信長が朝倉義景を攻め入る際に逗留したとされています。3年後、その城は信長が攻略し最終的に明智光秀の支配下になりました。
明智がセイソ散を伝えたのが1566年で四年前なので、籠城したという状況がいまいちわかりませんが、はっきりしているのはその「セイソ散」は、朝倉氏に伝わる秘薬として知られていたということ。朝倉氏といえば現在の福井県の大名で、一乗谷と呼ばれる拠点には高度な医療が発達していたといいます。
話を整理します。光秀が表舞台に立つ前の謎の期間は、越前にいて朝倉家と深い関りを持っていたため、セイソ散などの医療知識を得ていたのではないか、という可能性が出てきたのですね。
朝倉は将軍・足利義昭を支えた武将でもあり、光秀も一度は義昭に仕えたものの見限って信長に仕えました。
ちなみにその「セイソ散」は傷薬の一種。気になる成分は…
・芭蕉の巻葉
・黄檗
・スイカズラ
・山桃の実と皮
これらを黒焼きにして粉にし、油をつなぎとして練って完成。とのこと!!
効き目が本当にあるのか気になりますね!
とにかくこの時代、いろいろなことに精通していたからこそ重宝され、また、精通していないと生き残れなかったことが窺えます。
インテリと言われる光秀の別の側面もみた気がしました。
参考文献:「麒麟がくる~明智光秀とその時代」NHK出版
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