実は薩摩に逃げていた!?戦国武将・真田幸村(信繁)は生きていた説
徳川家と豊臣家が衝突を繰り広げていた大坂夏の陣。これによって大阪城は落城、豊臣家は滅亡へと追いやられ、淀君と秀頼の母子は自刃、多くの家臣も命を落としました。
そのうちのひとり、家康にさえその存在を恐れられていた真田幸村(信繁)でしたが、家康を追いつめてあと一歩というところで、負傷した仲間の面倒を見ている最中に襲われたと伝えられています。
ところが、そんな幸村には生存説が存在しています。
生存説の根拠となっているのが、炎上した大阪城の焼け跡からいくつもの焼死体が発見されたこと。その直後から、大阪城で死んだのは幸村の影武者で、本人は大坂夏の陣も後も生き延びていたのではないかという生存説が広まったのでした。
噂によると、幸村は秀頼を連れて海路で大阪城から薩摩へ脱したといいます。現に、大阪市の真田山には抜け穴が実在し、京都では「花のような秀頼様を 鬼のような真田が連れて 退きも退いたり鹿護島へ」という幸村と秀頼が薩摩にいったような歌が残されています。
さらに現在の鹿児島市には、幸村の墓のものと秀頼のものと伝えられる墓まで存在しています。ところが、これだけのものが残されていながら夏の陣以降の彼らの行方は依然謎のままとなっています。
ただ、地元では薩摩入りした秀頼、幸村らは島津家によって厚くもてなされ、匿われたと伝えられています。
現存する幸村の墓はホンモノなのか?幸村の墓と伝えられている墓があるのは鹿児島県南九州市頴娃町にある「雪丸集落」。雪も降らないような南国の地で、集落名に「雪」の字を使っていますが、これは「幸村」が変化したものといわれています。
但し、近年の研究では「幸村」という名前は大坂夏の陣が終わった江戸時代以降に呼ばれるようになったもので、本人は信繁と名乗っていたという説が有力ですので、これを正しいと考えるならば、集落の名前と幸村の名前の関係性は弱くなります。
また、鹿児島市の谷山という地区にある宝塔は豊臣秀頼の墓と伝えられ、民家の庭先にあります。
これらの墓は本当に当人たちの者なのでしょうか。いずれにせよ、ひょっとすると、日本の各地には、まだまだ私たちの知らない歴史が埋もれているのかもしれません。
参考:川口 素生 『真田幸村は生きていた! 日本各地の「不死伝説」の謎に迫る 』
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