信長側からみて明智光秀はいつ登場した?織田信長の家臣が記した貴重な史料「信長公記」

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信長側からみて明智光秀はいつ登場した?織田信長の家臣が記した貴重な史料「信長公記」

前半生が謎に包まれた明智光秀の記事は以前も記しましたが、

明智光秀が台頭する前の謎の期間は医療知識を得ていた?光秀が伝えた薬「セイソ散」とは

織田信長側からみて明智光秀はいつ登場したのでしょうか?

織田信長の家臣で七つ年上の太田牛一が、関ヶ原の合戦が起きた1600年に記した伝記『信長公記』に登場する明智光秀を追ってみました。ちなみに「のぶながこうき」ではなく、「しんちょうこうき」と読みます。

信長公記/陽明文庫所蔵

初登場は「六条の戦い」

文献に明智が初登場したのは西暦1569年(永禄12年)。

三好三人衆と呼ばれる武士の軍勢が、将軍・足利義昭の「六条の御所」を包囲したときに、将軍を守る側として光秀が登場します。

この時代、将軍をめぐり政治の駆け引きが行われており、信長は足利義昭の後ろ盾になり世を平定しようと企んでいたので、将軍を守る側にいました。

その警護のために御所を守っていた武士の一人に、光秀がいたというわけです。特に目立った武功はあげていないのか、武勲を讃えられたのは池田清貧斎という武士ですが、無事に御所を守りきったため信長は満足したとあります。

ちなみに信長は岐阜の美濃にいましたが、急使の報告を聞いて大雪の中急遽上洛。お供のうち何人かは凍死したほどの寒さを、普段なら三日かかるところを二日で京都に着いたといいます。凄い決断力と行動力ですね。

武功は?

その後もちょくちょく光秀の名は出てきます。

六条の合戦の一年後(1570年)には、朝倉勢との戦いで、手筒山城を攻略するため武藤有益という武士から人質を取ってくる任務を果たしたり、将軍・足利義昭が信長に謀反を起こした1573年には、その手下の者が築城した「石山の砦」を攻撃しています。

ちなみに手筒山城のくだりでは、豊臣秀吉が木下籐吉郎の名で登場しています。

足利義昭は一度和睦するもののすぐに信長に反旗を翻し、光秀は将軍側の山本津島守が籠城している城を包囲。

その後「木戸・田中」という敵城を信長側が降参させた後、光秀に両城を授けています。それだけ信頼があったということでしょうか。

そしてこのとき足利義昭は敗北して室町幕府が終わりを告げました。光秀は室町幕府の終焉を、信長側から目撃しているわけです。

その後1579年、安土城(現在の滋賀県近江八幡辺り)が完成した年には丹波(現在の京都府亀岡市辺り)と丹後(現在の京都府宮津市辺り)を平定、翌年には丹波の領地を与えられています。
信長は「長年丹波に陣を張り、戦果を挙げたことは比類ない功績である」と光秀を誉めています。よもやこの3年後に光秀が謀反を起こすとは、考えられなかったことでしょう。

こうしてみると、明智光秀はじょじょに存在感を増していったといえるでしょう。

比叡山焼き討ちのときはどうだったの?

信長を描くときに避けて通れない比叡山焼き討ち。起きたのは1571年、室町幕府が崩壊する二年前のことです。

よくドラマでは信心深く温厚な光秀が、信長に対して比叡山焼き討ちを考え直すよう諭していますが、どうやらそうでもなかったようです。

小説ではないので『信長公記』には客観的事実しか書いてありませんが、焼き討ちのあと、光秀に志賀郡という領地を与え、光秀は比叡山領地であった琵琶湖ほとりの坂本(現在の滋賀県)に城を構えたと記述があります。

もし信長に楯突いたり異論を唱えたのであれば、領地を与えることはなかったはず。ルイス・フロイスによると、坂本城は安土城につぐ壮大な城だったと書き記しているので、むしろ存分な働きをみせたということでしょう。

本能寺の変、直前の行動は?

本能寺の変は1582年、信長49歳の時。その年の5月15日には、徳川家康と武田側から寝返った穴山梅雪という人物を接待するため、光秀は接待役を仰せつかっています。二人は武田家滅亡の際に武勲をたて、信長から領土を治めることを許されたので、そのお礼として上洛したのでした。

ドラマやフィクションではよくこのときに、接待に何か不備があって信長に叱責されたことが、謀反の理由の一つとされることが多いです。しかしこの伝記では「光秀は京都や境で珍しい食料を調達し、大変気を張って三日間接待した」とだけあり、信長から不満をかったとは書いてありません。

接待終了の5月17日には、安土から自分の城がある坂本に帰っています。信長が次に中国地方の進出を狙っていたため、その戦準備として戻ったのでした。

そして5月26日、明智光秀は坂本を出発し、丹波亀山城に到着。27日、城から近い愛宕山(現在の京都府嵯峨)にある愛宕神社へ参詣して一晩過ごします。このときに気を静めていたのか謀反を決断したのか、二度も三度もお神籤をひいたところを見られています。

28日にはそこで連歌の会を催し、百韻を神前に納めて丹波亀山城に戻っています。そして信長が上洛する5月29日を待ち、6月1日夜に京都の市街地にある本能寺を襲撃したのでした。

本能寺に着いたのは明け方です。一晩駆け抜けて討ち取ったというわけです。ドラマでは深夜のように描かれることがありますが、それも演出の一つですね。

さて、結局『信長公記』を読んでも謀反の謎はわかりません。信長も、明智謀反の報を聞き「やむをえぬ」とだけ発したとしか書いてありません。いつから謀反を企てていたのかはわかりませんが、連歌の会で詠んだ句にヒントがありそうです。

「ときは今 あめが下知る 五月かな」

《五月雨の降りしきる今こそ、土岐氏の血を汲む明智が天下をとるときだ・・・》という意味が隠されているといいます。土岐というのは清和源氏の流れを汲む軍事貴族の系統で、美濃を中心に栄えた武家のこと。明智家もその庶流です。

室町時代は守護大名として栄えた土岐家。それを自分の手で再興したいとずっと胸に秘めていたのでしょうか。

安土城が竣工した1579年から、本能寺の変まではたったの3年。信長はこの年の3月に武田家を滅亡させ、4月に甲斐の恵林寺の焼き討ちも行っています。

まさに信長の人生は息つく暇もない戦いの連続だったといえますね。

このとき齡60近かかったといわれる光秀は、そんな戦乱の世を終わらせたいと考えたのでしょうか。

ちなみに伝記は、信長の死を知った徳川家康が急いで大坂を離れるところで終わっていました。

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