『巨人の星』も顔負け! 長嶋茂雄&王貞治「苦難と栄光の歴史」

日刊大衆

写真はイメージです
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 劇画『巨人の星』顔負けの地獄の特訓に耐え抜いた長嶋。“甲子園優勝投手”の王は打者への転向を模索していた。

 急に球が荒れ始めて、すっぽ抜ける――。イップスに悩む“阪神のエース”藤浪晋太郎(25)は、今季の復活に賭けていた。「春季キャンプで阪神の臨時コーチを担当していた山本昌がつきっきりで藤浪を指導しており、投球のすっぽ抜けも改善していたんですが……」(虎番記者)

 ところが、新型コロナウイルス感染症の検査で陽性反応が出たため、藤浪は緊急入院。阪神では藤浪と行動を共にしていた伊藤隼太(30)、長坂拳弥(25)も陽性反応が出たため、入院。「各球団とも“次は、うちの番か……”と戦々恐々としています。症状が軽くても、感染が分かれば“一発アウト”ですからね」(球界関係者)

 予定していた4月24日の開幕を早々に断念したNPB(日本野球機構)。「コロナ沈静化の見通しは立ちません。当初は反対するオーナーが多かった“試合数の調整”も不可避な情勢」(前同)

 仮に開幕にこぎつけたとしても、これほど遅れが出ている現状では、スェジュールは過密になる。「途中で主力が戦線離脱することも、十分考えられます。今季は選手層の厚いチームが有利になりますね」(前出の球団関係者)

 開幕すら危ぶまれる今季ペナント。そこで今回も、特別連載企画の第2回目として、長嶋茂雄(84=巨人軍終身名誉監督)と王貞治(79=ソフトバンクホークス会長)の苦難と栄光の歴史を紐解いていこう。(以下、文中=敬称略)

■伝説となった地獄の特訓

 立教大学に入学した長嶋は、そこで砂押邦信監督と出会い、才能を開花させる。「“鬼の砂押”の名はダテじゃなく、とにかく選手には厳しい練習を課した。この“砂押流”に対して、部員らが反旗を翻したんです。中心になったのは、立大卒業後に南海に行く大沢啓二でした」(ベテラン記者)

 砂押監督は特に長嶋に過酷な練習を与え、しごき抜いた。昭和30年代の運動部は、現在とは比べものにならないくらい練習が激しかったが、砂押の特訓は当時としても“地獄”だった。いまだに伝説として語り継がれているのが、「月夜のノック」だろう。寮での夕食が終わり、部員がリラックスできる時間に、長嶋は一人、グラウンドに連れて行かれた。当時の立大のグラウンドは、閑静な住宅地の中にあった。もちろん、ナイター設備などない。真っ暗なグラウンドで砂押自らバットを握ると、長嶋にノックし、徹底的に守備練習を行わせた。暗闇でも見えるようにと、ボールには石灰をまぶしていたというが、効果は気休め程度だろう。

「グラブに頼るな! 体で捕りにいけ!」 砂押の怒声と長嶋の息遣いが、静寂に包まれたグラウンドに響いた。肩で息をする長嶋は、最後はやけくそになるとグラブを地面に投げつけ、素手でノックを受けたという。連日の特訓で、長嶋の体はアザだらけになった。この「月夜のノック」により、長嶋の感覚は研ぎ澄まされていき、ついには暗闇で捕球ができるようになったという。プロ入り後、長嶋はこう語っている。「要は勘ですよ。バットにボールが当たってから、目の前に来るまでの時間が分かるようになった。おかげで、守備に必要な“心の準備”が身についたんです」

 山籠りした剣豪が、月明かりで必殺の剣に開眼したような話である。もう一つの特別練習は、砂押監督の自宅で行われた。長嶋と、1年先輩の矢頭高雄(立大から大映入り)、竹島本明は、夕食後に池袋にあった砂押の自宅に呼ばれ、延々と素振りをさせられた。「長嶋を初めて見たとき、矢頭、竹島と3人でクリーンアップを組めば、最強のチームができると思ったんだ。だから、この3人を徹底的に鍛えようと思った」

 砂押監督は後に、こう述懐している。野球部の寮のある東長崎から、池袋の砂押監督の家までは、歩いて1時間程度だった。そこを砂押は走って来いという。ノルマは20分。バットを片手に3人が寮を出ると、マネージャーが「今、出発しました」と、砂押監督に電話を入れる。すると監督は、ストップウォッチのスイッチを入れて、3人を待ち受けていたというから、たまらない。練習を終えて寮に帰るときもランニングだった。

 バッティンググローブなどない時代。素手でバットを振っていると、手の皮がむけて練習できなくなるので、軍手で素振りした。軍手も摩擦で熱くなるため、軍手を氷水の入ったバケツに浸してから素振りした。3人は軍手が乾くとまたバケツに浸し、繰り返し素振りしたという。「みな、手の感覚がなくなってしまい、練習後に女房が出すお茶をつかめないほどだった。よく耐えていたなと感心しますよ」

 立大を去ったあと、砂押監督は、こう本音を語っている。

 しかし、砂押監督と長嶋の師弟関係は突如、終わりを告げる。砂押監督があまりに厳しい練習を課すため、一部の部員と反砂押派のOBが結託した“クーデター”に遭い、辞任に追い込まれたのだ。長嶋が2年生の秋のことだった。

 立大野球部を常勝軍団に育てた砂押監督は、その後、日本鉱業日立、国鉄スワローズで指揮官を務めたあと球界を去り、ゴルフを趣味にした。ゴルフは決まって北海道でやった。実は、巨人の北海道遠征のときに必ず、長嶋と食事を楽しんでいたんだとか。アテンドしたのは、立大OBの小野秀夫だった。「御大(立大野球部OBは砂押監督をこう呼ぶ)は、いつも楽しそうだった。鬼の形相だった立教時代とは別人でしたね」とは長嶋の弁。楽しかったのは長嶋も同様で、信頼する恩師に、「監督さん、インコースがうまくさばけなくて……」と、アドバイスを求めたりした。砂押も、「君のような大打者に恐れ多いことだけど……」と前置きして、熱心にアドバイスしたという。「2人の師弟関係は美しかった。ずっと、師弟のまま続きました」と、小野は語った。

■卓球のやりすぎで球威が落ちた

 名門の早稲田実業高校野球部に入部するや、即レギュラー。1年の秋からは新チームで“エースで4番”を任され、2年の春の選抜では優勝。2年の夏には寝屋川高校をノーヒットノーランに抑えるなど、王貞治は押しも押されもせぬ高校野球のスーパースターだった。高校最後の夏の甲子園では、東京予選の決勝で明治高校に敗れるも、輝かしい実績に彩られている。しかし、王は人知れず悩みを抱えていた。「実は……3年生になってから、球威が落ちたんだ」

 王はプロ入り後、親しい記者にこう打ち明けている。「2年のオフシーズンに入ると、野球部で卓球が流行り出したんだ。僕は卓球部じゃなかったけど、中学時代は校内に敵なしってくらい上手だったんだよ。だから、野球部でみんなが遊びだすと、夢中になっちゃってさ……。そのうち、卓球のフォームがしみついて腕が“横振り”になってきちゃったんだよ。自分では気がつかなかったけどね」

 王のピッチングは、“卓球効果”で乱れていった。「腕はサイドスロー気味なのに、腰の回転はオーバースローのもの。これじゃ、フォームがちぐはぐだから、球に力が伝わらないよね」

 フォームの変化にいち早く気づいたのは、宮井勝成監督だった。宮井監督は、王に“ある実験”を命じた。トンボ(グラウンド整備に使用する道具)をマウンドに立て、王にピッチングをさせたのだ。「本来なら腕がトンボに当たるはずはないのに、何回投げても腕が当たる。宮井さんが、“お前さんは、こんなふうに投げている”とマネしてくれたのが、サイドスローだった。これはショックでしたね。ピッチャーのフォームってのは、そう簡単に直せないから、元に戻せないまま選抜大会に行きました」

■ホームランバッターへ

 3年の選抜甲子園は、投手としては満足のいく投球ができなかった王だが、バッティングでは大いにアピールした。2回戦の御所実業高校、準々決勝の済々黌高校戦と連続ホームラン。大会2ホーマーは、30年ぶりとなる4人目の快挙だった。しかも、2本のホームランは左右に打ち分けたものだった。「御所実戦では、2ストライクに追い込まれてから、外角高めのストレートを打った。完璧なフォームで打てたわけではないけど、打球がよく伸びてくれて、レフトのラッキーゾーンに入ったんです」と、王は回顧する。ラッキーゾーンだったと謙遜するが、当時は木製バット(金属バットの使用は1974年から)。王のパワーは、凄すさまじいものがあった。

 2本目のホームランは、済々黌高のエース左腕のカーブをライトスタンドに運んだものだった。スタンドから目を光らせていた阪神の佐川直行スカウトは、この2本のホームランを見て、王が大打者になると確信したという。佐川は王が早大進学を希望していることを知っていたが、獲得に動き出した。「正直言って、3年になった頃は、ピッチングよりバッティングが面白くなっていましたね」とは王の弁。早実OBで朝日新聞運動部記者の久保田高作も、王の“変化”に気づいていた。「最上級生になったということもあるんだろうけど、王はバッティングする時間が長くなっていた。気持ちよさそうに打っているから、やめさせるのもどうかと思って。それに、まあ見事なバッティングをしている。卒業してプロに行くか、大学に進むか分からないけど、どちらにしても、王はバッターでいくだろうね」

 久保田は当時、親しい同僚記者にこう明かしている。王の打者転向を見抜いていた関係者は、もう一人いる。プロを引退し、中大野球部の監督になっていた加藤正二(中日OB)だ。「久保田さん、王のバッティングセンスは非凡なものがある。あれは絶対にバッターにしたほうがいい。すごいホームランバッターになるはずだ」

 久保田や加藤は当時、王に打者転向を助言したわけではなかった。ただ、王本人は、「プロに行くならバッターで」と、密かに心に決めていたという。王獲得に向け、いち早く動き出していた阪神も、のちに王争奪戦に加わる巨人も、“王の打撃”を買っていた。(続く)

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