今世紀最大の発見!?豊臣秀吉が溺愛する秀頼のために築いた「幻の京都新城」が発掘される (2/3ページ)

Japaaan

※昔から、秀吉は拾丸に関白の座を譲りたい一心で、邪魔になった秀次を陥れ、切腹に追い込んだと言われていますが、我が子のためなら、天下のあらゆる楽しみを聚(あつ)めたとまで言われた豪華絢爛の聚楽第をあっさりと破却してしまうあたり、秀吉の溺愛ぶりが感じられますね。

さっそく慶長二(1597)年正月から徳川家康(とくがわ いえやす)をはじめ関東の諸大名を動員して城普請を命じました(現時点でこそ臣従しているものの、油断のならない家康たちの力を削ぐ目的もあったのでしょう)。

途中で計画変更もありましたが新城は5か月ほどで完成し、同年9月に秀吉父子が入居。ここで元服した拾丸は晴れて豊臣秀頼と称するのでした。

ちなみに、現代では便宜上「京都新城」と呼ばれていますが、当時の人々はこの城を「太閤御屋敷」「太閤上京屋敷」などと呼び、秀吉の没後は「秀頼卿御城」「新城」「京の城」と呼んだそうです。

きっと(秀吉の性格上、間違いなく)聚楽第にも引けを取らないか、それ以上に豪華絢爛な城だったことが察せられるものの、与えられた当の秀頼が住んでいた期間は短く、秀吉が慶長三(1598)年8月18日に亡くなると、その遺命によって秀頼は大阪城に入りました。

結局、秀頼は大阪城に。

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