1人10万円どころじゃない!?なんと領民に15万両寄付!井伊直弼は本当は超良い人説【3】
幕末の大老、井伊直弼(いい なおすけ)。彼について、悪人というイメージを持つ人は多いのではないでしょうか。しかし、近年は井伊直弼という人物を見直す動きがあります。
前回に引き続き井伊直弼の超良い人説を解説します。
前回までの記事
15年部屋にこもって自分を磨き続けた!幕末の大老・井伊直弼は本当は超良い人説【1】 毎日睡眠4時間!ステイホームで自分磨き?幕末の大老・井伊直弼は本当は超良い人説【2】
超大金を民に大盤振る舞い!
嘉永3年(1850年)11月21日、彦根藩主となった井伊直弼。前藩主だった兄に代わって、さっそく藩政改革に乗り出すにあたり、直弼が初めに行った事はなんと、「前藩主である兄・直亮の名前で藩金15万両を士民に分配する」という事でした。
実は前藩主・直亮の評判が悪かったため、兄のメンツを回復させると同時に、次は自分の治世が始まるという事を藩内に知らしめたのです。
思い切った決断力はこの頃からすでに表れていたのですね。
吉田松陰も称賛!そんな直弼が実際に彦根の地を見に回った時、まだ自分が何も期待に応えていないのに領民が総出で温かく出迎えてくれた事に対して、直弼はこんな歌を詠みました。
「掩ふべき袖の窄きをいかにせん行道しげる民の草ばに(こんな素晴らしい彦根の領民たちに相応しくない私は、恥ずかしくて顔を覆いたいが、袖が縮れていてどうしようもない)」。
直弼は、藩主・藩士・領民の一和を説いて積極的にやる気のある人材を要したほか、領内巡見して自国の土地の事を知り、領民の声を直接聞く時間を大切にしました。直弼は、大変領民思いの腰の低い殿様だったのです。
ちなみに、こうした一連の藩政改革を行った直弼の名は広く知れ渡ったらしく、皮肉にも後に安政の大獄で死罪となる吉田松陰は、直弼を領民に対する哀れみの心を持った「名君」と評しています。
幕府大老に大抜擢井伊直弼が大老に抜擢されたのは、ペリーの黒船来航から5年後の1858年、アメリカの総領事ハリスが日米修好通商条約を締結すべく日本にやって来た超混乱期でした。
大抜擢の理由は、今まで直弼の人柄を見てきた将軍の家定が「家柄からも人物からも大老は掃部頭(直弼)しかいない」と言ったためでした。
正直、弱小国だった日本がアメリカを突っぱねて鎖国なんて現実的に続けられるわけもなく、もうどう考えても開国するしかありませんでした。ただ、幕府が天皇の許可を得てから条約調印しようと考えて孝明天皇に相談してしまったため、事態がややこしくなってしまったのです。
なぜなら、孝明天皇の立場からしてみれば、自分の代で外国の勢力に屈して開国するなんてことは末代までの恥。代々の天皇に顔向けできない。だからどんなに幕府が説得しても、決して許可できるわけがないのです。
かといって日本にアメリカをはねつけるだけの力はありません。もうどうにも八方塞がりになってしまった幕府を救ったのが、大老、井伊直弼でした。
【続く】
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