長嶋茂雄、初キャンプ・オープン戦で“赤バット”に代わった4番
セ・パ両リーグとも、6月19日の開幕が決まったプロ野球。例年より、3か月遅れてのスタートとなる。
〈外出自粛などによる閉塞感に苦しんだ国民の皆様方を勇気付け、またプロ野球以外のスポーツにも開催の指針を示すことができればいいのではないかと思っております〉NPB(日本野球機構)の斉藤惇コミッショナーは、こう声明を出しているが、実はNPB側には政府から「開幕OK」のゴーサインが出ていたという。
「途方に暮れていたNPBに官邸筋から、“野球は国民的スポーツ。復興の灯にしたいので、ぜひ開幕してほしい”との要請があったようです。官邸サイドには、延期された東京五輪の試金石になるとの思惑もあったようです」(球界関係者)
当面の間は無観客試合となるが、プロ野球ファンには待ちに待った開幕ということで、シリーズ連載でお届けしている「ON秘話」より、長嶋茂雄、王貞治のプロ1年目の開幕までを紐解いてみたい。(文中一部=敬称略)
※
昭和33年2月15日、卒業試験を終えた長嶋は、巨人のキャンプ地・明石(兵庫県)に向かった。
午後9時45分発の急行「さつま」。東京駅の15番ホームには、立教大の同期で南海入りが決まっていた杉浦忠と、寮で長嶋と同室だった杉本公孝(国鉄)が見送りに来ていた。
“六大学のスーパースター”長嶋のキャンプ入りとあって、大阪駅では報道陣がどっと乗り込んできた。長嶋と同行していた巨人の若林俊治総務部長は何事かと驚いたというが、2人が腰を抜かしたのは、翌16日の午前10時前に明石駅に着いたときだった。ホームには300人以上の人がごった返していたのだ。
長嶋と若林は「有名な映画俳優でも同乗していたのだろう」と思っていたのだが、人の群れは長嶋を一目見ようとするファンだった。スーツ姿の長嶋は、ファンにもみくちゃにされながら、合宿先の旅館まで歩いて行くはめとなった。旅館まで10分で着くところが、40分以上かかったという。
翌17日から練習に参加した長嶋は、初っぱなに水原茂監督からノックを受けたが、卒業試験などで約3か月のブランクがあったせいか、動きは鈍かった。水原監督は長嶋の体をほぐしてやろうと、「馬場と一緒に外野を走れ」と指示した。
ご存じのように、馬場正平はのちに日本プロレスに入門し、ジャイアント馬場となる。馬場は高校を2年で中退し、昭和30年に投手として巨人に入団。二軍で実績を残し、長嶋が入団する前年には一軍での登板も経験していた。守備では調子の上がらなかった長嶋だが、バッティング練習では、三遊間に2本の安打を放つ。二軍の打撃練習にも参加し、ここでもヒット性の当たりを連発して首脳陣を喜ばせた。
ふだんは一軍の練習が終わると帰ってしまう報道陣も、全員残って長嶋の一挙一動を追っていた。球団関係者は、改めて長嶋の人気ぶりを目の当たりにした。
■“川上時代”の終わり
明石のキャンプが終わり、オープン戦が始まった。3月1日の阪急戦は、あいにく雨が降る悪天候だったが、高知市営球場には開場前から大勢のファンが並んだ。5時から並んで当日券を求めたファンもいたという。
第1打席は三振。第2打席は中飛。長嶋が凡打するたび、阪急ベンチからは「それでも“日本一”か!」とヤジが飛んだ。これは、長嶋の契約金が史上最高額であったことを皮肉ったものだった。
ところが、6回無死満塁のチャンスで、長嶋はエースの梶本隆夫からレフト前に逆転のタイムリー。値千金の一打で、阪急ベンチを沈黙させる。
続く高松(香川県)での試合では、森口哲夫から、9回に左翼にライナー性のホームラン。オープン戦ではあるが、これが“ミスタープロ野球”長嶋茂雄のプロ初ホーマーだった。
9日には大阪球場で南海戦に臨んだ。ここで水原監督は、長嶋を4番に据えて、川上哲治を5番にするオーダーを初披露した。球場のアナウンスを聞いたファン、報道陣はどよめいたという。
無理もない。川上は昭和15年以降、巨人の不動の4番打者だったからだ。14日の南海戦では、長嶋を3番にして川上は4番に戻るが、ファンには“川上時代”が終わろうとしていることを予感させた。
この続きは6月1日発売の『週刊大衆』6月15日号で。