「応仁の乱」約70年前に大規模合戦明徳の乱「京都焦土化回避」の理由 (3/3ページ)
この合戦では大内義弘の奮戦もさることながら、山名勢は南北から幕府軍を挟み討ちにするチャンスがあったにもかかわらず、満幸の軍勢は「西国勢にて(京周辺の地理に)無案内なりしによりて、その辺りの深田をも知らず、知らずうちこみて」(『明徳紀』)とあるように、進軍が遅れてしまったという。結果、氏清は討ち死にして満幸は逃走。のちに京の旧臣宅で侍所所司京極高詮に誅された。
十一ヶ国の守護だった山名一族の勢力はこうして大いに削がれ、うち八ヶ国の守護職がその後、他家に渡った。
では、京を舞台にした合戦が街に大きな爪痕を残さなかった理由はなんだったのか。もちろん、戦いが長期化しなかったことが最大の要因である一方、義満が幕府軍を配置した内野の周辺が当時、京都市街から外れていたことも大きかった。要は幕府軍にそれだけ、京の中心部を守ろうとする意思があったのだろう。
跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。