太田道灌VS豊島兄弟が激戦を展開「江古田原の合戦」は東京の局地戦 (2/3ページ)
そこに長尾景春の裏切りというピースが加われば、豊島兄弟が道灌の敵である古河公方陣営に走ることは自然な流れで、二人はさっそく、江戸と川越間の軍用道を遮断。文明九年(1477)三月一四日、道灌は豊島兄弟の本拠である石神井城を攻めようとしたが、この間に江戸城や川越城を落とされる危険があり、相模の上杉勢(堀越公方軍)に援軍を要請して後詰させようとしたものの、折悪く多摩川が増水し、戦いは仕切り直しとなった。
そして、同年四月一三日、道灌は江戸と川越の両城に十分な後詰の兵を置いたうえで、まず、豊島兄弟の弟である平右衛門尉が籠る城を包囲。この城は平塚城(北区)、もしくは練馬城の両説に分かれ、道灌が合戦の二年後に山内上杉の家臣に宛てた「太田道灌状」と呼ばれる書状に、城の名が書かれていない一方で、『鎌倉大草紙』に「(道灌が)平塚の城を取り巻き」と書かれている。
だが、平塚城が豊島氏の当初の本拠だった豊島から近いものの、当時は廃城になっていたと考えられ、また、『鎌倉大草紙』よりは信頼性の高い「太田道灌状」に合戦後、「平塚と申すところに対城をこしらえ」とあり、一度は廃城になった台地に新たに拵えたことが分かる。
よって、城は練馬城(現在の遊園地「としまえん」)と断定していいが、道灌はここを攻め落とさずに、まず周辺を放火して引き揚げた。城の周りを放火することは敵を挑発する常套手段で、郷土史家の葛城明彦氏によれば、これこそ道灌が仕掛けた“罠”で、彼があえて少人数で城を囲み、豊島兄弟は誘い出されたという。
実際、「太田道灌状」にも道灌が、豊島兄弟がそれぞれ居城を出たことを確認し、「馬を返し、江古田原において合戦せしめ、勝利を得候」とあり、葛城氏の説を裏づける。
その道灌が誘い出した「江古田原」は妙正寺川を下限にした武蔵野の原野(現在の「哲学堂公園」付近)に比定される。
■約30年に及ぶ乱終結の最大の功労者だった!
両軍の軍勢の数について諸説があるが、前述の通り道灌は強敵である長尾景春の動きが気になるだけにむろん、全勢力を投入するわけにはいかなかったはず。