仙台開府は伊達政宗と徳川家康のまさかの共同事業!?:江戸時代の地理風水を駆使した都市設計【3】
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江戸の家康、仙台の政宗の鬼門封じ:江戸時代の地理風水を駆使した都市設計【1】 伊達政宗は徳川家康の作った城に住まわされ…:江戸時代の地理風水を駆使した都市設計【2】政宗は、家康が作った岩出山城に移封され、家康が許可した地(青葉山)に自分の城を建てたが、それだけでは済まなかった。
仙台城下の結界である六芒星のど真ん中を貫く、東西南北のラインを仙台藩のレイライン『グランドクロス』と名付けた。
南北のライン上には、北に岩出山城、南に磐城平城がある。岩出山城は家康の縄張りで政宗が城主となった。【2】参照
磐城平城は、家康の家臣・鳥居忠政が城主となり、仙台の政宗を見張るために建てられたという。
1600年の関ヶ原の戦いの結果、それまで飯野平城を居城としていた岩城氏が追放され、1602年に徳川幕府譜代の鳥居忠政が飯野平に転入した。鳥居忠政は、都市名を戦国時代までの「飯野平」から、岩城の「いわ」の字を変更して「磐城平」に改めて磐城平藩を樹立し、飯野八幡宮を現在地である八幡小路に移設し、その飯野八幡宮の跡地に磐城平城の建設を命じた。城は1603年に着工し、12年の歳月を費やして1615年に梯郭式平城を完成させた。
天守は造られず、本丸の三層櫓がその代わりとなった。その姿は、「磐城名物三階櫓、竜のお堀に浮いて立つ」と詠われた。また、水戸を徳川頼房の本拠地にさせたのと同じく、磐城平を鳥居忠政の本拠地とさせた主な目的は、仙台を本拠地とする伊達政宗への牽制であった。wikipediaより
飯野平城の15代当主城主岩城重隆は、政宗の祖母である久保姫(栽松院)の父親である。家康は岩城氏を追放して鳥居忠政を転入させるが、その場所からわざわざ現在地(直線距離で約2km北東)へ城を移設しているのである。
きっちりとレイライン上に置きたかった、と思わざるを得ません。
忠政の転入は、仙台開府とほぼ同時期であることから、家康は江戸城下を整備するとともに鬼門としての最大限の機能を奥州にまで伸ばしたのではないだろうか。
東西ラインの山形城もまた、鳥居忠政が磐城から転入している。忠政以前は、政宗の母(義姫)の実兄・最上義光の城だった。
元和8年(1622)、最上家が改易となり鳥居忠政が改修し1636年(政宗没年)まで城主となっている。
このように、仙台藩のレイライン上には、常に家康公の足跡が見て取れる。
仙台東照宮は、幕府に知られてはならない結界の一地点で、鬼門に家康を祀ったことがバレれば、伊達家は取り潰しになりかねないからこそ、六芒星の存在は仙台藩にとってはトップシークレットのはずだった。
が、ここにきて、ひょっとすると仙台の街は、最初から家康公と政宗の共同事業だったのではないか…と感じざるを得ません。
城はレイライン上に建てられた岩出山城は、以前は奥州探題大崎氏の家臣氏家氏の居城だった。青葉城は、もともと国分氏の城だった。青葉城も山形城も以前は縄文遺跡があった場所。
仙台城の候補地だった榴ヶ岡は源頼朝が奥州藤原氏を攻めたときに藤原泰衡が防御のための館を築いた場所。【2】参照
もう一つの候補地大年寺山には茂ケ崎城があった。その周辺愛宕山にかけては横穴墓群がある。
他にも、細かく調べていくと、グランドクロス上には古くは縄文遺跡、中世になると領主の館跡、近世には城跡や寺社が配されている。
このような台地の気が流れるルートを中国では龍脈といい、西洋ではレイライン(遺跡群が描く直線)という。
そのことを知っていたのが、徳川家康with天海だ。
政宗は、さらに天文学をプラスして仙台に四神を配したのだ。
レイライン(ley line)
古代の遺跡には直線的に並ぶよう建造されたものがあるという仮説のなかで、その遺跡群が描く直線をさす。レイラインが提唱されているケースには古代イギリスの巨石遺跡群などがある。レイラインの存在は1921年にイギリス人のアマチュア考古学者アルフレッド・ワトキンス(en:Alfred Watkins)によって提唱され、その著書『The Old Straight Track』(古い直線路)によって遺跡の直線的配置性が世間一般の注意を引きつけることとなった。 wikipediaより
参照:星の街仙台 *当研究内容は、限りなく史実に基づき推理を重ねたオリジナルの創作になりますので、画像および文章の無断使用、他所での発表をご遠慮願います。
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