江戸時代「将軍」を輩出できず辛酸を舐め続けたエリート一族「尾張徳川家」の運命【その2】

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江戸時代「将軍」を輩出できず辛酸を舐め続けたエリート一族「尾張徳川家」の運命【その2】

天下の徳川家にあって将軍家に次ぐ家格を有する御三家。その筆頭である尾張徳川家は、名家でありながら自家からの将軍輩出は叶わなかった。今回は【その1】に引き続き、尾張徳川家の歴史をご紹介する。

前回の記事

江戸時代「将軍」を輩出できず辛酸を舐め続けたエリート一族「尾張徳川家」の運命【その1】

2度の将軍擁立失敗

家康直系の子孫は4代家継で途絶えた。その後7代将軍の家継までは2代将軍秀忠および3代将軍家光親子の血筋を繋ぐが、家継が1716年に8歳で早世したためその血縁も途絶えてしまう。

7代将軍決定の際、尾張徳川家は最初の将軍輩出機会を得る。将軍職にあった6代将軍「徳川家宣」は尾張徳川家4代藩主の「徳川吉通」を7代将軍に推したのだ。しかし、側近の反対によって結果的に実子である家継を擁立した経緯があった。

家継亡き後、尾張徳川家6代藩主の「徳川継友」が7代将軍徳川家継の後継者候補に上がったことにより、尾張徳川家には再び将軍擁立の機会が巡ってくる。

徳川8代目将軍 徳川吉宗(Wikipediaより)

しかし、同じく御三家であった紀州徳川家の「徳川吉宗」との後継者争いに破れ、またしても自家からの将軍擁立は叶わなかった。

尾張徳川家には初代藩主義直の意向により”将軍職を争ってはならない“という暗黙の了解が存在していたとされ、藩を上げて継友の将軍位就任運動を行うことがなかったことも原因といわれている。

宗春(尾張徳川家)と吉宗(紀州徳川家)

8代目徳川将軍の座についた紀州徳川家出身の吉宗。吉宗の将軍就任以降、紀州徳川家は栄華を極め、14代目の家茂まで7代を通して紀州家の血脈が将軍職を独占した。

この吉宗の将軍就任が尾張家と紀州家の運命を大きく変えてゆくことになる。

1730年、尾張徳川家では8代将軍吉宗と将軍職を争った6代藩主の継友が没し、弟の「徳川宗春」が7代目として尾張徳川家の藩主となる。

尾張徳川家7代目藩主 徳川宗春(Wikipediaより)

吉宗は「質素倹約」を旨とし、増税や幕府権力の再興に努めた(享保の改革)。この改革を受けて結果的に財政は安定するが、庶民にも質素な生活を強いたため文化は停滞した。

一方、尾張徳川家の藩主宗春は「規制緩和」を旨とし、吉宗が禁止していた芝居や祭りを積極的に奨励。行き過ぎた倹約はかえって庶民を苦しめるとして、将軍家とは正反対の政策を進めた。

宗春は幕府の法令に従い表向き対立姿勢は示していないが、尾張徳川家の政治政策は明らかに時の幕府の方針に逆行するものであり、その裏には紀州家に対する反発や反感があったのではないかとも考えられている。

【その3へ続く】

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