法華宗が公開討論で浄土宗に惨敗「安土宗論」は織田信長の謀略か!?

日刊大衆

写真はイメージです
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 天正七年(1579)五月二七日、織田信長が岐阜から移った安土城下で、法華宗(日蓮宗)と浄土宗の宗教論争が行われた。これを「安土宗論」といい、信長は甥である織田信澄(明智光秀の娘婿)らが厳重に警護する中、行事(判者)役として南禅寺の長老を招いて宗派の優劣を競わせたのだ。今で言うこの公開ディベート(討論)は当時、大きな話題を集め、公卿らも日記(『兼見卿記』『言経卿記』)に宗論の結果を記している。

 そもそも仏教は同じ釈迦の教えでも、どの経典を用いるかで各宗派に分かれ、法華宗が法華経を唯一の経典とする一方、浄土宗は浄土三部経が根本経典。当然、経典が異なれば、論争が起き、宗派同士の対立も少なくないが、安土宗論が歴史に名高い理由は公開方式だったことに加え、信長がこれを法華宗の弾圧に政治利用したとされるためだ。

 実際、法華宗は敗れ、宗論に参加した僧と在家信者(塩売り商人)が首を刎ねられたばかりか、「今後二度と他の宗派に対して法難しない(宗論を吹っ掛けない)」という屈辱的な起請文を書かされた。はたして、なぜか。堺の法華寺院の妙国寺が所蔵する空蝉という茶杓を信長が欲し、これを断られたことから恨みを抱いたとの説もある。本当なのか。信長側近くに仕え、『信長公記』の作者である太田牛一は筆まめで、法華宗が敗れるまでの出来事をこまめに記録している。

 宗論の当日も、その現場にいた可能性が高く、浄土宗の僧が安土城下で辻説法していたところ、まず前述の塩売り商人を含む法華信徒の二人が議論を吹っ掛けたという。だが、浄土宗の僧は二人が若かったため、「ご両人が頼みにされる法華宗の僧を呼んできていただけたらご返答いたしましょう」と回答。名だたる法華宗の僧が京から安土に集まったため、この話を耳にした信長が両宗派に家臣を派遣し、「(織田家で)うまく事をおさめるので、これ以上、話を大きくせぬように」と伝えた。

 だが、浄土宗側が「仰せの通り従います」とした一方、法華宗側が宗論にこだわったため、安土城下の浄厳院の仏殿で織田家の仕切りで宗論が行われた。すると、法華宗側は豪華な法衣で着飾った五人が、一方の浄土衆側は質素な黒染めの出で立ちの二人が出席し、大勢の観衆が堂の周りで見守る中、公開ディベートがスタート。浄土宗のいう念仏の概念が法華宗の教えにあるのかという意味で、「法華八軸(巻)のなかに念仏ありや」という問いによって口火が切られ、論争はこう白熱した。

法華「念仏あり」

浄土「念仏の教えが法華の考えのなかにあるのなら、なぜ“無間に落ちる念仏”と説くのか」

法華「(では聞くが)法華の弥陀と浄土の弥陀は一体なのか、それとも別体なのか」

浄土「どこにあっても弥陀は一体だ」

法華「それならなぜ浄土宗では法華の弥陀を捨閉閣抛(投げ捨てるという意味)するのか」

浄土「念仏を捨てよといっているのではない。念仏を行う前に、念仏のほかの行を捨閉閣抛せよといっているのだ」

 こうして問答が続き、浄土宗側が「方座第四の妙を捨てるのか、捨てないのか」と問うと、法華宗の僧は今でいうとフリーズ。「方座第四の妙」の意味が分からなかったからだ。

浄土「法華の妙であるのに、汝は知らないのか?」

法華「…………」

浄土「もういちど問う。方座第四の妙を捨てるのか、捨てないのか」

法華「…………」

『信長公記』は「そのとき、判者をはじめ、満座一同にどっと笑いて(法華宗の僧の)袈裟を剥ぎ取る」とし、その後に答えることができなかった法華宗の僧が群衆に殴られ、慌てて四方に逃げ去ったという。

 法華宗が大惨敗した要因は、浄土宗が持ち出した「方座第四の妙」。この用語を巡っては今も結論が出ず、浄土宗側の僧が法華宗側を罠にはめるための“造り名目(嘘の用語)”だったかが争われている。

■信長が法華宗の体質をかねて警戒していた!

 また、『信長公記』に浄土宗の僧が早口だったとあり、法華宗の僧が正確に聞き取ることができず、それが誤解を生んだという説もある。

 むろん、以上の可否もさることながら、今回のテーマは論争があくまで、信長によって仕組まれた宗教弾圧事件であったかどうか。『安土宗論実録』によると、「(宗論を見学に来た僧は)二、三千もの数で法華宗を取り巻き、法華宗は籠の内の鳥のようだった」という。

 当然、法華宗側の史料のために鵜呑みにはできないが、そもそも宗論の会場だった浄厳院は浄土宗の寺。法華宗はいわば“完全アウェー”の状態だったのだ。

 こうした中、信長は宗論後、ただちに安土城から浄厳院に向かい、浄土宗の僧らに褒美を与えるとともに前述の通り、法華宗側を厳しく処罰。こう見ると、仕組まれた政治的弾圧事件の臭いも漂うが、そもそも空蝉という茶杓を欲っした信長が断られて恨みを抱いたという話は、主に法華宗側の史料に基づく話だ。

 法華宗の僧が当時、他宗派の僧に宗論を挑んではうち負かす例が他にもあり、『信長公記』にも「法花(華)衆は、口の過ぎたるもの」とある。

 つまり、今回の宗論も在家信者の塩売りが、辻立ち説法中の浄土僧に嚙みついたことが原因で、信長がそうした法華宗の体質を嫌った面があったことも確かだろう。かといって、論争が最初から仕組まれていたわけではないだろう。

 信長は事を荒立てないように周旋すると両宗派の仲介を買って出たが、法華宗側は申し出を蹴った。当然、信長も面白くない。宗論で法華宗が勝ったのであればまだしも、それが浄土宗側の罠だったかどうかはともかく、惨めな負け方をした。そら、みたことか……という信長の感情が厳しい処罰に繋がり、かねてより法華宗の体質を警戒していたから、この機に弾圧しておこうと考えたのではないか。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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