起源は今でも不明な点が多し。天下を獲った徳川家の母体「松平家」8代の歴史【その4】
織田家と今川家の間で起こった三河の領土争い。小国である「松平家」は代々三河の支配権を有したが、8代目当主「広忠」の死によって大きな転換期を迎えていた。
これまでの記事
起源は今でも不明な点が多し。天下を獲った徳川家の母体「松平家」8代の歴史【その1】 起源は今でも不明な点が多し。天下を獲った徳川家の母体「松平家」8代の歴史【その2】 起源は今でも不明な点が多し。天下を獲った徳川家の母体「松平家」8代の歴史【その3】 家康の誕生
1541年、広忠は尾張の大名・水野忠政の娘・於大(おだい)と結婚。43年、「家康」が誕生する。広忠と於大の婚姻は水野家と松平家の関係性を強めるための政略結婚であった。
今川家との結びつきを重要視し、反織田の姿勢を明確にしていた松平家は、於大の実家である水野家と織田家の関係性が強くなると、於大を離縁して水野家へ送り返している。
織田家の侵攻が勢いを増してくると、小国である松平家は自力での国防が難しく、今川に幼い家康(幼名・竹千代)を人質に出すことによって今川との関係を保とうとした。
清康の死後、織田家と今川家との間で板挟みにされていた松平家。1542年と1548年の二度に渡って繰り広げられた「小豆坂の戦い」は、実質三河の覇権を巡る織田・今川の戦いといえる。
三河の安定がなされぬままの1549年、広忠は死去。享年24。父と同様に短命であった。死因には暗殺説や病死説など諸説があり、特定されていない。
三河帰還と徳川への改姓8代目当主の広忠が若くして死亡したことにより9代目を次ぐはずであった家康だが、人質として今川家に囚われている身であったため、三河への帰還は叶わなかった。
松平家の本拠地であった岡崎城には、今川家の家臣が城代として入城したため、松平家の三河支配は一時的に中断した。
しかし、1560年の「桶狭間の戦い」で今川家当主・今川義元が織田信長に討たれると、家康は今川家が放棄した岡崎城に入城。今川家から独立の道を探っていく。
その後は、伯父・水野信元の仲介もあって織田家と同盟を結び(清洲同盟)、1563年に「家康」と改名。1566年、朝廷から藤原氏を認められ「従五位下三河守」に叙任されたことを契機に「徳川」姓を名乗った。
その後の松平家
家康は「徳川」姓を松平一族の中でも別格の扱いとするため、自身の一家だけに名乗らせ、一族庶家の姓は「松平」に留めた。
江戸時代になり徳川の治世になると、「徳川」姓は将軍家や御三家など、本家を継承できる一部の血筋だけが名乗ることを許された。
「松平」の姓は、御三家の分家などの親藩の家で用いられ、その子孫も多くが大名や旗本となり、多数の松平家が存続した。
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan


