平将門と藤原純友が同時テロ謀議!承平天慶の乱「比叡山の約束」伝説 (2/3ページ)
文元は備前国及び、周辺に土着した中級官人とみられ、いわば純友と同じ立場だが、『純友追討記』にはその「郎党」と書かれ、のちに海賊として中央政府に討たれた。
したがって、純友は伊予以外の瀬戸内海の沿岸各地に、文元のように志を同じくする中級官人(彼らも地元の海賊を組織)のネットワークを築き、そもそも海賊集団を束ねた大ボスだったと言うことができる。
とはいえ、背景に中央政府に対する反乱の意図があったかは不明だ。
承平天慶の乱は将門が領地争いから伯父の国香を殺害して、その火蓋が切られる中、備前国では子高と文元がなんらかの理由で対立。純友の乱もこうして配下の利権争いに介入したことから始まり、子高は文元らの襲撃に応戦したが、あえなく降伏して捕らえられた。
こうした中、相次いで国府を襲った将門は同じ頃、関東で新皇を自称。確かにこの動きに純友が合わせたようにも映る。
また、前述の須岐駅襲撃事件前、純友が海賊集団を率いて「巨海(東シナ海か?)」に乗り出し、自身を京に召喚する官符が各地で下されたことから、次第に反政府的な活動を行うようになったことは事実だろう。
とはいえ、情報伝達のスピードが今とは比較にならない当時、東西で同時に事が起きたとは必ずしも言い切れない。こうした中、将門がかつて家人として仕えた藤原忠平は天慶三年(940)正月、小野好古を追捕使に任じて進発させたが、政府はほぼ同時に純友に従五位下の官位を授けた。平将門が関東で反乱していたときだけに、純友だけでも懐柔しておこうとしたのだろう。
■政府軍に捕らえられてそのまま獄死を遂げた
当然、これが一定の効果をもたらしたようで、この年の前半は純友に大きな動きは見られず、この間に将門が討たれたことで、関東の反乱は終息。将門の討ち死をいつ、純友が知ったのかは分からないものの、政府はこうした事態を受け、本気で西国の海賊退治に乗り出し、六月に「純友暴悪士卒」の追捕を決定。
純友は瀬戸内各地で海賊行為を活発化させたが、すでに遅かった。むろん、将門の乱がこんなにも早く平定されるとは思わなかったのか。